町内ライダー
その7
ここは一体何処なのか。
ワタルは、執務室で椅子に腰掛け、山のような書類にサインをしていた筈だった。昼食後は、他に予定がなければ、いつもそうしている。
その間は暇だからと散歩に出掛けてしまった筈のキバットが、耳の横で羽ばたいていた。
前方には横断歩道と青信号。柴犬を引いたお爺さんが信号を渡っている。
見回すと、左手にも横断歩道が見える。ここは交差点のようだ。そして、ワタルの横に、変わった格好をした少年が立っていた。
歳はワタルと同じ位だろうか。麻か何かのような質感の、藍染に暗い臙脂色の襟が付いた、道着のような着物を身に付けている。
少年は青なのに信号を渡らず、ワタル同様戸惑ったように辺りを見回していた。
「あの……ここ、何処なんでしょうか?」
目が合って、道着の少年が口を開いた。ワタルは答えを持たない。さぁ、と呟いて首をやや傾げた。
交差点の車用信号に取り付けられた看板に書かれた地名は、聞いたことのないものだった。
辺りはビルや店が立ち並んでいるが、少なくともワタルは知らない場所だ。
もしかして、この変わった格好をした少年も、自分と同じ境遇なのだろうか? そう思いワタルが質問を口にしようとしたとき、後方から大きな声が響いた。
「わーっ! 退いて退いて、退いてくださぁあいっ!」
慌てた顔の青年が、自転車に乗り迫ってくる。ブレーキはかけているようだったが、自転車はスピードを増して走ってきた。
信号は赤に変わっていた。ワタルが自転車を避けるのは訳ない事だが、あの自転車が車道に突っ込み事故になってしまう。
躊躇していると、隣の少年が前に飛び出た。何をするんだ、ぶつかる。声を上げようとして、やや信じられない光景が眼前に生まれていた。
自転車は止まっていた。少年が、タイヤを鷲掴みにしていた。乗っていた青年は、反動で振り落とされ、後ろに放り出された。
ぽかんとしていると、少年が掴んだタイヤを放り出して、青年に駆け寄る。自転車はがしゃんと派手な音を立てて横転した。
「すいません、大丈夫ですか! 怪我はありませんか!」
自分こそ、走っている自転車のタイヤを素手で掴んで、怪我はないのだろうか。
青年はふらふらと体を起こし、大丈夫です、と弱々しく言った。
そこに、どかどかと不躾な足音が複数近づいてきた。
「おいこらこのガキャア!」
どう見てもその筋の方が三人。どうやら自転車に乗っていた青年に怒鳴り付けている様子だった。
「兄貴の一張羅をこんなにしてくれて、どう落とし前付けるつもりじゃ!」
「す、すす、すいませぇん」
兄貴、と思しき男の白いスーツの裾には、確かに泥が跳ねていた。
青年はひたすら申し訳なさそうな顔をして、ぺこぺこと頭を下げている。
「済まんで済んだら警察はいらんのじゃ! クリーニング代十万円、きっちり払ってもらおうかい!」
「え、ええっ、そんな、そんなお金すぐには……」
青年はすっかり気が動転しているのか、オロオロと右を向いたり左を向いたりしている。
ワタルはこういう下品な手合いが嫌いだ。あまりにも前時代的なテンプレートに沿い進む展開にやや呆れながらも、口を開いた。
「どんなに高級でも、クリーニングに十万円もかかる筈はないんじゃないですか。あなた方には、恥という物はないのですか」
「なんじゃこのガキ、黙ってろ!」
「常識的な範囲でのクリーニング代であれば、僕が立て替えます。まずその下品な言葉遣いを止めてくれませんか。そんなに怒鳴らなくても聞こえます」
「んだとコラ、あんまり大人を怒らせんじゃねぇぞ! お仕置きじゃ!」
男が拳を振りかぶるが、ワタルは避ける様子も見せず、男を睨み付けた。眼光に、男は動きを止めた。
「いい加減にしないと、死なない程度に吸いますよ……?」
ワタルの眼光に何かを感じたのか、男はやや後退り、拳もゆっくりと下ろされる。
「暴力は良くないですけど、降り掛かる火の粉は払わないといけませんね」
道着の少年も静かに口にして、傍の鉄柵に手を掛けた。彼が力を込めると、鉄柵が、針金のようにぐにゃりと曲がった。
「ひっ……!」
「何じゃこのガキ共……化け物……!」
「にっ……逃げろ!」
三人の男達は背中を見せ、ほうほうの体で走り去っていった。逃げ方まであまりにテンプレート通りで、恐れ入る。
「あ、あの……二人とも、有り難う」
青年が、たどたどしく口を開いた。
ワタルは内心、道着の少年の怪力っぷりに驚愕しているのだが、この青年は驚かないのだろうか。普通なら、あの男達のように驚き恐れ、逃げ出す。
「あの……もし、時間があったら、助けてくれたお礼がしたいんだけど……二人は何か用事とかある?」
ワタルはかぶりを振った。道着の少年も同様だった。
用事は山のようにあるが、取り敢えず今は、自分が何処にいるのかすら分からないし、行く当てもない。
「よかった。僕の姉さんがカフェをやってるんだ。何かケーキでもご馳走するよ」
言いながら青年は、倒れた自転車を起こして引きながら歩きだした。ワタルはその後に続き、道着の少年も歩き出した。