町内ライダー
ミルクディッパーというその店は、平日の昼間にも関わらず、若い男性客で賑わっていた。
二人はカウンターに通され、隣に座ったアスムと名乗る道着の少年は、店の中央に居座る天体望遠鏡を、物珍し気に眺めている。
道々、二人は自分達の境遇を語り合った。アスムは、山の中で鍛練していた筈が、何故かあの交差点に立っていたという。
アスムが住む山の名前は聞いたことがないし、アスムも、ワタルがファンガイアの王だと告げても、ぴんとこない顔をしていた。
野上良太郎と名乗る自転車の青年は、どちらの言う事も理解が届かない様子だった。
一番驚いたのは、野上良太郎についてかもしれない。
今日は[#「今日は」に傍点]、自転車のブレーキが故障して、止まらなくなって疾走途中に泥水を跳ね上げてしまい、そこに不運にもあの三人が居たという。
だが、彼に言わせれば、この程度は日常茶飯事。今日はワタルとアスムに助けられて大事に至らず、かなり幸運な部類に入るという。
この人、よく今まで命があったな、というのが正直な感想だった。
恐喝はともかく、自転車のブレーキが壊れて止まれなくなっていた件はあまり洒落になっていない。一歩間違えれば人身事故だ。
自分ではもう慣れているのかもしれないが、傍から見ていたら心臓に悪そうだ。
「お待たせ! もしお腹空いてたら、簡単な料理も出来るから、好きなだけ言ってね」
良太郎がココアとミルフィーユのセットをそれぞれ、ワタルとアスムの前に置いた。
「いえ、大した事もしてないのに、却って恐縮です」
アスムが畏まって口にした。彼は、王族の嗜みとして丁寧な言葉で話すよう躾けられたワタルから見ても、少々爺むさい話し方をする。
「お二人とも有り難う、良ちゃんの命の恩人さんなんだから、ほんとに遠慮しないで下さいね」
カウンターの向こうから、良太郎の姉でこの店の主――野上愛理が、満開の白い牡丹みたいに華やかな微笑みを投げた。
「おいワタル、ケーキ食わないのか。何なら俺様の分も頼んでくれても」
「キバットは何もしてないだろ」
「何だとう! コウモリ差別だ! 断固抗議する!」
「分かったよ……半分あげるから」
耳の周りをキバットが飛び回っている。アスムも良太郎も、キバットの存在に気付いた時こそ驚いていたが、すぐに慣れてしまったようだった。二人とも適応力が高すぎではないだろうか。
愛理に至っては、あら可愛いこうもりさん、で済ませた。この姉弟は一体どうなっているのだろう。
フォークでケーキを二つに分け、キバットに頭側の細い方を指し示した。
「キバットはこっち。文句があるなら食べなくていいからね」
「ワタル……お前って…………クール」
溜息を吐きつつ、キバットは多少不満の色を覗かせながらも、ケーキの細い側を食べ始めた。
「ねぇ、二人とも、これからどうするの?」
良太郎の質問に、ワタルもアスムも何も答えられず、二人して小さく息を吐いた。
ここが東京某所という事は分かったが、良太郎はキャッスルドランなど知らないという。あの目立つ城を知らないという事が、まずありえない。
ワタルがすべき事は城に帰る事だが、キャッスルドランがないのであれば帰りようがない。
恐らくアスムも事情は同じだろう。
「うーん……警察に相談……しても解決しそうにないし」
良太郎は真剣に悩んでいる様子だった。名案など浮かばないだろうと思われたが、その気持ちは素直に嬉しかった。
ワタルがココアを一口飲むと、入り口のドアが開き、一人の女性が店へと入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「あっ、ごめんなさぁい。今日はお客として来たんじゃないんですー」
女は、ボブカットの一部を水色に染め、ぴったりとした水色と黒のボディスーツを着ていた。町中を徘徊するにはあまり一般的な格好ではない。
「あれっ……スマートブレインのCMの人……?」
「そうでーす。お姉さんってもしかして有名人? キャー嬉しーっ!」
良太郎の指摘を、女性はやたらとハイテンションに肯定した。
スマートブレインというのが何なのかワタルには全く分からないが、有名なのだろう。
「今日は、ワタルさんとアスムさん、そちらのお二人を迎えにあがったんです。お二人の住む場所は、私が用意させていただいてますから、心配御無用ですよっ!」
女性は、ワタルとアスムを手で指し示して、そう来意を告げた。
あまりの急展開に、ワタルの頭には疑問符しか浮かばない。知らない女性が何で、ワタルとアスムが宿がない事を知っていて、尚且つ既に用意しているのか?
まるで、予めこうなる事を知っていたかのように。
「……何で、僕達の事を? 僕は貴女なんて知らない、いきなり言われても信用できない」
「信用して貰えないなんて、お姉さん悲しいです……えーん」
演技掛かった口調で言って女性は、やたらと大仰な身振りで泣き真似をした。益々胡散臭さは深まるばかり。
「……僕、行きます」
今まで黙っていたアスムが突如口を開いて、衝撃発言を行う。びっくりしてワタルはアスムを顧みた。
「行く当てがないのは確かですし……女の人を泣かせちゃいけないって……昔、師匠だった人に言われたんです」
「いや泣いてない、あの人泣いてないですから!」
騙されている、というレベルにも達していない。アスムの頭の中は一体どうなっているのか。純真などという生易しい言葉では言い尽くせない。
「お姉さんの涙は、絞り尽くされて枯れてしまいそうですぅ、うぇーん」
「貴女は黙って下さい!」
「ふえぇん」
前門の狼、後門の虎。どちらとも会話が噛み合わない。
ワタルは大きく溜息を吐いた。
物凄く不安だ。この女性に騙されるより、アスムを一人にすることの方が、遥かに不安だ。
何か騙されて利用されようとしたとしても、ワタルには切り抜ける自信はある程度ある。
仕方がない。
「……分かりました、僕も行きます。但し、何か他意があるようなら容赦はしませんよ」
「勿論、百パーセント善意ですから、安心して下さいねっ!」
ワタルの同意を取り付けると、女性は途端に満面の笑みで顔を上げた。
「じゃあ、早速行きましょう」
促されてワタルとアスムは席を立ち、ご馳走様でした、とそれぞれ良太郎と愛理に告げた。
「今日は本当に有り難う、またいつでもいらしてくださいね」
「待ってるから、また遊びに来てね」
「はい、是非!」
「……僕達が無事だったら是非」
良太郎と愛理も、にこやかに手を振っている。だからどうなっているのか、この姉弟は。
店を出ると、すぐ側に黒い車が止めてあった。
「あっ、お姉さんの事は、スマートレディって覚えてください。気軽にレディって呼んでくれていいですからねっ!」
「出来れば今すぐ記憶から抹消したい位です……」
相手にせずワタルはリアシートに乗り込んだ。鬼が出るのか蛇が出るのか。アスムとレディも乗り込んで、車は走りだしていった。