町内ライダー
その9
どんな人生にも後悔はある。例え、我が人生に一片の悔いなし、と最期の時に思えたとしても、それは細かい後悔を忘れているか、後から自分を納得させた結果。謂わば後付けだ。
紅渡は今小さな後悔の只中にある。迂闊な事をしてしまった。
彼が最近必要に迫られて購入したスーツ。着慣れないそれを、兄に会う前にクリーニングに出そうとした事を、彼は今小さく後悔していた。
渡が会社を訪れる約束になっていたが、兄は時間ができたからと、迎えに来てくれたのだ。
それはいい。いつもの事だし、家族というものをずっと求めてやまなかった兄が自分を可愛がるのは、過保護に思われる事も多いが、概ね嬉しい。
問題は、途中で立ち寄ったクリーニング屋にあったのだ。
「深央…………さん?」
「深央が……」
彼等の眼前に現われたのは、彼等が愛した女性。その人が蘇ったとしか思われない。
だが彼女は、ただきょとんと怪訝そうな目線を、渡と兄に向けただけだった。
「真理さんのお知り合いですか?」
「ううん、知らない。初めて会った」
受け付けカウンターに座ってスーツを受け取った少年が尋ねるが、真理さん、と呼ばれた深央は、ぽかんとしたままかぶりを振った。
「……そんな、そんな筈がない! 深央、思い出せ、お前はきっとその男に騙されているんだ! 貴様、深央に何をした!」
「え、えぇっ……僕ですか……?」
「兄さん落ち着いて! この人はどう見てもただのアルバイトさんだから!」
取り乱した太牙は、掴み掛からんばかりの勢いで、カウンター越しにアルバイトの少年に食って掛かろうとする。渡は慌てて太牙を押さえ、押し止めた。
「あの……私、園田真理っていうんですけど、みおって誰ですか? 人違いをされてるんじゃ」
「そんな馬鹿な! 深央、君は記憶まで無くしてしまったのか! 思い出せ、僕とのあの目くるめく愛の日々を!」
「だから落ち着いて兄さん! あと目くるめく愛の日々とか妄想入り過ぎてるよ!」
太牙は最早半泣き状態。渡の言葉も耳に入っていない。
そのだまり、と、この深央によく似た女性は名乗った。信じ難い事だが、他人の空似なのだろう。まるでクローンのように瓜二つだが、渡も最近似たような人違いで絡まれた。実はよくある事なのかもしれない。
園田真理もアルバイトの少年も、泣き崩れる太牙を茫然と見守る。
「おい尾上、店先で何揉めてんだ、クレーマーにすぐ負けんなっていつも……」
奥からまた一人、男が出てきた。眼光の鋭い青年。
「……真理、お前が泣かせたのか? いくら気が強いったって、客を泣かせる事ぁねえだろ」
「違うわよ!」
即座に否定され、男も茫然と、泣き崩れる太牙を見た。