町内ライダー
その12
看板を蹴り倒した男は振り向きもしない。時折後ろを気にしながら、全速力で歩道を駆け抜けていく。
「待ちなさい!」
追っ手の声が響くが、待てと言われて待つはずがない。男は後ろをちらちらと振り返りながら走り続けた。
交差点の信号は青。そのまま突っ込むと、角を曲がってきた通行人の肩に激突してしまう。
「うわっ!」
男も通行人も尻餅をついた。
丁度いい。男は懐をまさぐりながら素早く身を起こして、やっと体を起こしかけた通行人の少年を、後ろから羽交い締めにした。
「わあっ! ななな、何するんですか!」
「うるせえ、動くんじゃねえ!」
少年の喉元には、懐から取り出して開いたナイフの刃が突きつけられていた。
「睦月!」
「お前も動くんじゃねえ!」
連れの青年が叫ぶが、手出しできない。
まずい、非常にまずい。この状態では睦月に怪我を負わせてしまう可能性も高い。剣崎は男を睨みながら、何か使えるものはないか、周囲を必死に見回した。
睦月はライダーだが、正規の訓練を受けたわけではない。生身でもある程度は動けるだろうが、このような不測の事態に対処できるほどの経験はない。
とにかくあのナイフを手から叩き落とさなくては何も始まらない。だが、剣崎は男から見て左手脇、ナイフのある右手までは遠い。不意打ちに成功したとしても、睦月を傷つけられてしまう可能性がある。
睨み合ったまま三者が固まっている間に、男を追っていた男が追い付いてきた。走ってきた割には、息は切れていないようだった。
見たところニ十代前半、黒のベストに半袖カッターシャツ、黒のネクタイを締め、ジーンズの出で立ち。端正な顔立ちをしている。
「人質とは卑怯な……。今からでも遅くありません、自らの罪を悟り悔い改めなさい」
「何を寝言をほざいとんじゃ! こいつを殺されたくなかったら、俺を逃がせ!」
「愚かな……!」
青年が言うと、突如追われていた男の右腕が何かに引っ張られたように、睦月の首から離れて前へと差し伸べられた。
チャリチャリ、と微かに金属音がする。追われていた男の右手首から、何かごく細い糸のようなものが伸びていた。
何にせよチャンスは今だ。剣崎は睦月を救出しようと駆け寄るが。
男を追ってきた青年が、それよりも早く男へと駆け寄って、右手首に手刀を浴びせていた。
ちゃりん、と乾いた音を上げてナイフが路上に転がる。右が自由になった睦月は、身を捩って男の拘束から逃れ、慌てたのかやや足を縺れさせながらその場から退避する。
「このっ!」
右腕を糸に引っ張られながらも、男が左腕を振り上げて拳を青年へと放つが、青年は最小限の動きでそれを躱すと、男の鳩尾へと右の拳を叩き込んでいた。
たまらず男は咳き込み、その場に屈み込む。
糸の先を辿ると、小さな銀色の銃のようなものを構えた女性が立っていた。糸はその銃から出ており、先に重しがついていて、男の右手首に巻き付いているようだった。
「山添巧馬、密輸銃販売で君の首には賞金が掛かっている。君は罪を犯した。だが安心したまえ。人間は、悔い改め、罪を償う事が出来る。今日君は、生まれ変わりやり直す機会を与えられたのだ。神と、その意志を代行するこの私の慈悲に、深く感謝しなさい」
諭すように、青年は男を見下ろして、ゆっくりと口にした。やや離れた所にいる女が、わざとそうしているのだろう、大きく長い息を吐いた。
「はいはい分かった分かった。もういいから。あ、君たち、迷惑かけてご免ね」
「はぁ……」
ぽかんとして剣崎は女の言葉に、一応の返答を返した。ややあって側にパトカーが到着し、警官が何人か降りてきて男を拘束した。
警官たちは青年と女性に敬礼すると、パトカーに犯人を乗せ走り去っていく。
青年と女性もその場から立ち去るのだろう、踵を返し背中を向けていた。
「あっ、あのっ!」
「うぇっ!?」
突然、それまで黙っていた睦月が大きな声を出した。予測していなかったので、剣崎は驚いて素っ頓狂な声を上げてしまう。
睦月が小走りに駆け寄ると、青年は振り返った。
「何だね? 私に何か用か」
「あ、あの、助けて頂いて、ありがとうございました。よければ、お名前を教えていただけますか」
睦月の質問に、青年は一瞬きょとんとしてみせたものの、すぐに気を取り直したのか柔和な笑みを湛えて睦月を見た。
「私は名護啓介、バウンティハンター名護啓介と覚えておきなさい」
「……あー、覚えなくていいから。碌な事がないわよ」
「いえ、名護さんですね! 本当にどうも、ありがとうございます!」
名護の隣の女性の言葉は睦月の耳には入っていないようだった。睦月が大きく礼をすると、名護啓介と名乗った青年は満足そうに軽く頷いてから、睦月に背を向けて歩き出した。
「名護さん……なんて立派な人なんだ……!」
歩き去る名護の背中に向けられた睦月の眼差しは、憧れ純度百パーセントとでもいおうか。
他のものなど眼中にない、といった風情。
これはちょっと面倒な事になりそうな予感が、しなくもない。参ったな、と口には出さずに胸の中だけで呟いて、剣崎は頭を掻いた。