町内ライダー
大通りを進む。だが、すぐに涼は立ち止まった。
信じ難い事だが、彼が運が悪いというのは嘘ではなく、しかも相当悪いらしい。
彼は角から飛び出してきた男にぶつかって尻餅をついた。角からは、四、五人、柄の悪い若い男が出てくる。
「……っ、このっ! どこ見て歩いてやがんだオラぁ!」
空から落ちてきた青年にぶつかった男も、人相は悪い。青年は弱々しい声で謝っているが、そんな謝罪が聞き届けられる筈もない。
別に必要はなかったが、一応アンノウンから助けてもらった事にはなる。借りを返しておこうか。
そう思った時、その場の空気が、突如一変した。
青年が、殴りかかった男の手首を、がっしりと捕まえていた。
「何だお前……こ、このっ……離せ、離せよ!」
「…………おいお前ら、随分好き勝手してくれたじゃねえか。言っておくがな、俺は最初から最後までクライマックスだぜ。覚悟しな……!」
「!?」
殴りかかった右手を左手で掴んだまま、右で男の鳩尾に一撃、体が折れた所に蹴りを一発。
あの青年にはどう考えてもあの動きは出来ない。相当喧嘩慣れしている者の動きだ。
瞬く間に、青年は五、六人の男たちを叩きのめしていた。倒れこみ立ち上がれない男たちの間を縫って、悠々と横断歩道を渡る。
距離をとるのに注意を払いつつ、涼はさらに彼の後をつけた。
どうも分からない。気の弱そうな青年、やけにはしゃいだ紫、喧嘩慣れした姿。この三つは、どれも異質で、一人の人間の人格として認識出来ない。
多重人格、という奴なのだろうか?
幸運、というべきか。後は何事も起こらずに、青年は喫茶店へと入っていった。
『Milk Dipper』と看板には書かれている。確か真魚が、そんな名前の喫茶店が、コーヒーが美味しいと評判だから行ってみたい、という話をしていたような気がする。
窓に寄りそっと覗くと、青年はエプロンを付け客にコーヒーを運んでいた。どうやらここの従業員のようだった。
店の中で働いているのであれば、もう涼が見ていても分かることはないだろう。もしかしたら、氷川にでも相談した方がいいのかもしれない。
そう思って大学へ行こうとすると、聞き慣れた声が涼を呼んだ。
「あーっ、葦原さんっ! こんな所で何してるんですか!」
噂をすれば、だ。後ろには、津上翔一と風谷真魚がいた。津上の手には、重そうな買い物袋が提げられていた。
「特に何って事もない。お前らは買い物か?」
「そうです、今一休みしようかなって相談してたとこで。ねえ真魚ちゃん」
「もし良かったら、葦原さんも一緒にどうですか?」
二人には屈託がない。真魚がにこやかに提案する。
いや俺は、と言いかけるが、津上がそれを聞くはずがない。いいですから、と強引に引っ張られて、店の中へと連れ込まれる。
「いらっしゃいま……」
店内に入った三人を目にして、いらっしゃいませと言いかけて青年は動きを止め、固まった。
自分を見ているのだろうか、と涼は思ったが、どうも違う。青年は、真魚を見ていた。
「…………ナオミ、さん?」
「えっ……」
涼にも津上にも、勿論真魚本人にも心当たりのない名前を口にして、青年は固まったままだった。見兼ねたのか、カウンターの奥の女性が声をかける。
「良ちゃんどうしたの? あっ、すいません、そちらのテーブルにどうぞ」
判然としないがらも、三人は奥のテーブルへと腰掛ける。真魚は誰かに間違われたのだろうか。
「意外と真魚ちゃんに一目惚れとか? よくあるじゃない、ナンパの手口みたいなので、適当な名前言ってみて名前を聞き出すって」
「意外って何よ、意外って」
真魚は頬を膨らませるが、津上は意に介した風もない。いつも通りの光景だった。
そこへ、件の青年がお冷をトレイに載せやって来た。
「いらっしゃいませ。お嬢さん、先程は大変失礼致しました。僕は野上良太郎。お嬢さんが、あまりに僕の知り合いに似ていたもので、驚いてしまったのです。もし宜しければ、お名前を伺ってもいいですか?」
涼と話していた時の辿々しい口調はどこへやら。野上良太郎と名乗った青年は、いやにすらすらと真魚への謝罪の言葉を口にした。
口調だけではない。僅かに目を細め、優しげな眼差しで微笑んで、まるで恋でもしているみたいに真魚を見つめている。
また新しい性格が出てきた。正直ついて行けない。
「えっと……あの……」
「真魚ちゃん、知らない人に簡単に名前を教えちゃ駄目だよ!」
「まなさん、と仰るんですね、可愛らしい名前だなぁ」
口ごもっていた真魚に注意した津上は、見事に真魚の名前を呼んでいた。
真魚にじとりと睨まれるが、やっちゃった、という表情の津上はあまり反省はしていなさそうだった。
「そう……僕が見とれてしまったのは、何も知り合いに似ていたからというだけではないんです。お嬢さんがあまりにも可憐だったから……。よければ、僕に釣られてみませんか?」
よくもまあ、こんな歯の浮くような台詞を素面で口にできるものだ。
ある意味感心しないでもないが、真魚はぽかんとしているし、津上も状況をよく理解していない。
「……おい、注文はとらないのか」
涼が冷たい声で告げると、青年は一度肩をびくっと痙攣させて、今注文の事に気付いたように慌て始めた。
「あっ……はは、は、はい! ああ、あの、すいません! 変な事言っちゃって! ああ、あの、ご注文……って、さっきの!?」
慌てたり青くなったり、真魚を向いては頭を下げ涼を向いては驚いて、青年の動きは実に忙しない。
一体どれが本当の野上良太郎なのか。大丈夫なのか、何か病気ではないのだろうか。
注文をとると、良太郎はカウンターへと忙しなく下がっていく。
コーヒーが美味しいという評判は満更出鱈目でもないのかもしれない、店内は客で賑わっていた。ただ不思議なのは、客の大半が若い男だという事だが。
「俺の出番がないのは、泣けるでぇっ!」
カウンターの向こうで良太郎が突然叫んだ。今度は関西弁か。
ほどなく出てきたコーヒーは美味しかったが、この店で寛ぐのは色々とハードルが高いかもしれない。
氷川に相談するのも憚られ、そして今日一日の講義を全てサボってしまった結果に気付き、涼は青くなり溜息をついて家路を辿ったのだった。