町内ライダー
その14
良太郎がミルクディッパーへ到着したのは、着くべき時間を三十分程過ぎてからの事だった。
シャツもジーンズも泥が撥ね汚れ、頭も何か埃のようなものを被って、足取りはふらついている。
良太郎が時間通りに辿り着けないのは毎日の事だし、愛理は良太郎が自転車で十分の道のりを一時間前に出てきていて、時間通りに辿り着けないのは彼が自堕落であるが故ではない事を弁えている。
故に彼女は全く動じずに、笑顔で弟を迎えた。
「姉さんごめん、遅れちゃって」
「良ちゃん大丈夫? 怪我してない?」
「平気だよ、いつもよりはマシだったし」
「そう、良かった。早く着替えてらっしゃい」
頷いて良太郎は奥に入っていった。時刻は朝十時半を回ったところ。店内には既に二組の客がいた。片方はテーブルに腰掛け、片方は二人組がカウンターに並んで座って、コーヒーを味わっている。
今日は天気がいい。まだ爽やかさを失わない白い日差しが、高い場所から窓の中へ挿し込んでくる。先程愛理が開店準備の為に外へ出た時は、風も心地良かった。今日も過ごしやすい一日になるのだろう。
暫くして良太郎がエプロンをつけ降りてきた。良太郎の自宅からここへ来るまでには彼の服は必ず汚れてしまうため、着替えがストックしてある。
愛理は、なぜ良太郎が別々に暮らしているのかを思い出せない。それどころか、このミルクディッパーが夜空や星、星座をテーマとしたライブラリーカフェである理由すら、自分で決めた事の筈なのに思い出せない。
彼女はコーヒーの事以外はあまり些末事に拘らない性格だったから、普段は忘れているけれども、それでも心の片隅では、自分が思い出せない事を疑問には思っていた。
「あっ、良ちゃん、朝ご飯食べてないでしょ?」
「えっ……うん…………」
「ほら、まずはこれ食べて?」
良太郎が来たら食べさせようと、予め用意しラップをかけてあった皿をカウンターに置いて、ラップを外すと、良太郎は弱りきったような曖昧な笑顔を浮かべて、弱く頷いた。
「今日は……これは、一体何……?」
「ひじきハンバーグ。煮干入りよ。鉄分とカルシウムが一杯だから、きっと良ちゃんも逞しくなれると思うの」
皿に乗っている小判型の黒々とした物体は、ひじきを固めたものらしかった。脇には千切りのキャベツが添えてある。
にっこりと、花咲くように愛らしい満面の笑みで答えられては、良太郎に逆らう術はない。
一体ひじきを何で繋いで固めたのかが謎だが、愛理の料理の傾向から推察して、想像しない方が精神衛生上健やかに過ごせそうだった。
観念して良太郎はカウンターに腰掛けるが、ふと、横から刺すような視線を感じた。
彼は良太郎は見ていなかった。その視線は、黒々とした自称ハンバーグへと向けられていた。
「…………それ、が……、ハンバーグ、だと……?」
良太郎の腰掛けた椅子から一つ置いて右の椅子に腰掛けた青年の声は、やや低く甘い。
錆鼠の作務衣を身につけ、伸ばした前髪が緩やかにウェーブして、はっきりとした瞳に影を落としている。
その瞳は、仕方のない事だが、黒い物体を信じられないものを見るように見つめていた。
「おい、やめろよ天道。別にお前が食べる訳じゃないんだし……」
「お前は黙っていろ。こんな物の存在を許しておくのは料理に対する冒涜に他ならん」
連れと思しき横のスーツの青年が嗜めるが、作務衣の青年は聞き入れる様子は全く無かった。
「いやあの……姉さんが、僕の為に作ってくれたんです、冒涜なんてそんな」
「ではお前は、それを料理だと言うのか」
「まっ、まだ、食べてないから……食べたらきっとおいしいですから!」
ややむきになって、良太郎は彼にしては語気強く言い切った。
用意された中濃ソースをかけて自称ハンバーグを口に運ぶが、思わず顔を顰めてしまう。食べ物への感想を隠す器用さは彼にはなかった。
少なくとも、かけるべきはソースではなかった、どちらかといえば醤油だった。
ひじきの磯臭さとソースのフルーティな辛味・酸味が醸しだすのはただの不協和音だ。
粉々にして混ぜ込んである煮干の異物感と鉄臭い粉っぽさが口腔内の不協和音を加速させる。
「美味い、という顔ではないな。そうだろうな。料理に愛情は不可欠だが、愛情だけでは料理にはならんという事だ」
「おい天道、お前なぁ……」
作務衣の青年の言葉ははっきりきっぱりとしていた。スーツの青年が渋い顔をするが全く意に介する様子はない。
反論の言葉が出てこない事が、良太郎は悔しかった。確かに愛理の料理は酷い。それは認めざるを得ない。
だけれども(時折、通報されるほど異臭を放つ何かを作った時を除けば)決して食べられない訳ではない。
良太郎はこれが愛理だと思っているし、これでいいと思っている。横から知らない人におかしいと言われる謂れはない。
「おい女、俺が真の料理というものをお前に教えてやる。おばあちゃんが言っていた。おいしい料理を堪能してしっかりと満足した心こそが、真に健やかな身体を作り出すとな。弟の健康を心から願うならば、お前は真の料理を身につけるべきだ」
「……はぁ」
むすっと膨れた良太郎は顧みず、作務衣の男は右手をこめかみの辺りに掲げ、人差し指で天を指して、愛理に語りかけた。
だが、一番の当事者である筈の愛理の反応は鈍い。自分の料理にケチをつけられているという認識が彼女にはないようだった。
「……いつも思うけど、天道、お前って本当に暇だよな」
「お前と違って、生活に追われてあくせく働く必要がないだけだ」
「……そしていつも思うけど、ホントムカつくよなお前」
「人は本当のことを指摘されると癇に障るものだからな。それだけ俺の指摘が的を射ているという事だ、致し方ない」
当たり前のように作務衣の男が言い、スーツの青年は呆れて頭を抱えた。
「ふふ……ふふふふ…………ははははははは! 笑止! 天道、貴様如きが料理について講釈を垂れるとは、片腹痛いわ!」
唐突に笑い声が後ろから響いて、良太郎は驚いて振り返った。
「矢車!」
「お前……やさぐれているのではなかったのか」
スーツの青年が頓狂な声をあげて、作務衣の男は声の主に振り返って、苦々しく呟いた。
いつの間に入店していたのか、男が一人良太郎の後ろに立っていた。片袖がない黒い皮のロングコートと同じく黒い皮パンツに、シルバーのネックレスを首から幾重にも下げている。
「お前に忘れ去られた豆腐対決の恨み、ここで晴らしてくれる! そして天道よ、貴様など足元にも及ばない食の神と呼ぶに相応しい方がいる事を、思い知らせてくれるわ!」
「矢車……あんた、何か激しくキャラ変わってないか?」
スーツの青年のツッコミは、矢車と呼ばれた男には届いていないようだった。耳に入っていない様子で話を続ける。
「貴様のハンバーグと、俺の尊敬する方がこの女に作らせたハンバーグ、この弟に食べ比べてもらう。それでどうだ」
「……よかろう。俺は天の道を往き総てを司る男、如何なる挑戦も逃げはせん。全力で叩き潰すのみ!」