町内ライダー
矢車は、天道と加賀美という二人連れが帰ってから暫くして、一人の青年を伴って戻ってきた。
「矢車さん……俺、こう見えても意外と忙しいんですけど。今日は先生の家に行って布団を干してこようと……」
水色のTシャツにジーンズ、陽に焼けた丸い顔をした青年は、渋々といった様子でカウンターに座り、そう漏らした。
「あなたという人はいつまで美杉家の家政夫をしてるんです。まあいい、布団も大事ですが、まずは料理です。おい、さっきのハンバーグらしきものを頼めるか」
「はい。今日のランチメニューなんですよ。ランチお二つで宜しいですか?」
「……一つでいい」
まさかあれが客に出すものだとは流石に予測もしていなかったらしく、矢車は不意を打たれたようにたじろいで、弱い声で注文を告げた。
ミルクディッパーのランチは、毎日愛理の手作りで一日二十食限定。それなりに人気メニューである。
愛理の気紛れによってメニューが決定されるため、今日のような破壊力を持っていることもあれば、普通のカレーライスだったりもする。そして、たとえ外れでも愛理の手料理を食べたいという客層が一定数存在している。
「あの、この人は……?」
「この方は津上翔一シェフ。俺が最も尊敬する料理人だ。この人なら、お前の姉も美味い料理が作れるよう、教え導いてくれる筈だ」
「どうも初めまして。そんな矢車さんが言うような大袈裟なもんじゃないですけど、宜しくお願いします」
にこりと満面の笑みを浮かべて挨拶した津上翔一は、気さくで陽気な好青年、といった第一印象だった。矢車という男の話すような偉大さは感じ取れないが、いい人そうだった。
「初めまして、野上良太郎です。あの、姉さんの事、宜しくお願いします」
「このお店、コーヒーは美味しかったけど、料理は初めて食べるなぁ。さっきから矢車さんがやたら凄いみたいな言い方してますけど、一体どんなのが出てくるんですか?」
翔一の疑問に答え得る解答を良太郎は持っていなかった。弱く笑って誤魔化すと、準備が出来たのだろう、愛理の良太郎を呼ぶ声がした。
そして出て来た黒い小判型の何かを見て、さしもの翔一もぎょっとした顔を見せた。
「この香りは……ひじきと…………煮干しも入ってます?」
「流石は津上さんだ。正解です」
我が意を得たりといった様子で、矢車が満足そうな笑みを見せた。先程の経験から、良太郎はソースではなく醤油を皿の脇に用意した。
やや躊躇いながらも翔一は、自称ハンバーグに箸をつけ、口へと運んだ。飲み込んで、やや考え込むような顔をする。
「……俺はこれ、悪くないと思います」
「ええっ!?」
意外な言葉に、良太郎は思わず素っ頓狂な声を上げて翔一を見つめた。翔一は動じる事なく、白いご飯と自称ハンバーグを交互に口に運ぶ。
「でも、工夫すればもっともっと、栄養満点で食べやすく美味しくなるはずです。愛理さん、でしたっけ? 俺に、弟さんに栄養を付けてもらうお手伝いをさせて下さい。一緒に、どうしたらもっと美味しくなるのか考えましょう!」
「えっ……あ、はい、よろしくお願いしますねぇ」
愛理にとっては事態はまだ他人事の領域にあるらしい、翔一に呼び掛けられて、ようやくのんびりとした返事を返した。恐らく愛理は実際に行動を始めてもこのままの調子であろうことは、良太郎には容易に想像がつくが。
矢車は満足気に頷き、翔一は再びランチを食べ始める。
いったいどんな『ハンバーグ』を食べさせられる事になるのか。暗澹とした気分に陥った良太郎にそれを教えてくれる者はない。