町内ライダー
その16
「いらっしゃい、あら、剣崎ちゃん」
「こんにちは、マスター」
夕刻、マルダムールの入口ドアを開けて姿を見せたのは、いつもの濃紺のジャケットを羽織った剣崎一真だった。
剣崎に続いて、彼よりはやや背の低い、ライトブルーのジャケットを羽織った青年がドアを潜ろうとした、その時。
「ガウッ、バウー……オンッ!」
店の奥の壁面に埋め込まれた犬小屋の中で寝ていた筈のブルマンが、突如吠えて駆け出した。
ブルマンは客に懐く事は(二人の例外を除いて)ないが、乱暴な犬ではない。店内で吠える事など、滅多にない事だった。
「わっ、うわっ!?」
「バウッ、バウッ、ウー……」
ブルマンは店内に入った剣崎の横で立ち止まり姿勢を低くして、彼の連れを睨み付けて唸り声を上げた。
剣崎の連れ――剣立カズマは、店内に入る事もままならず、困惑して眉を顰め、閉まりかけたドアを押さえたままで、ブルマンを見つめ返した。
「……お客さんには懐かない子だけど……初対面でここまで嫌われてんのは、初めて見たわ」
感心しているのか呆れているのか判別の付かない口調で、マスター・木戸が低い声で漏らした。
「剣立……お前、なんか犬が嫌がる臭いとか出してるんじゃないか?」
「出すかそんなもん! 俺だって知らない犬にこんなに警戒心丸出しにされたのなんて初めてだよ!」
じとりと剣崎に見つめられて、剣立は心外そうに反論した。
どちらにしろ、このままでは睨み合いが続くだけだった。ブルマンが警戒を解く様子は全くない。
「……仕方ないな、今日は別の所にするか」
剣崎が溜息混じりに口にするが、剣立はそれを聞くと、弾かれるように顔を上げて食って掛かった。
「だって……ここの期間限定激甘ガトーショコラは今日までなんだろ!? 俺はそれを食べるのだけを楽しみに、昼飯だってカレーだけでラーメンは我慢して……」
「そうよー今日までよー。体脂肪率の敵をいつまでも出しとかないわよー」
マスターが平坦な口調で告げて、その非情な宣告を耳にした剣立は、半ば泣き出しそうに顔を歪めた。
「……マスター、テイクアウトやってないのは知ってるんだけど……」
「そうよー駄目よー。うちに来てコーヒー飲まないでケーキだけ持ち帰るとか有り得ないし、コーヒーを楽しむ為には器も環境も大事だから、テイクアウトは一切しません」
剣崎の妥協案も、にべなく却下される。ややしょんぼりして剣立は、泣きそうな顔のまま、肩を落とした。
「……とりあえずそこ、他のお客さんの邪魔だから、一回出よう、出て考えよう、な?」
諭すように優しく剣崎に言われて、剣立は力なく二度頷くと、後ろに下がってドアを閉め、外へと歩いていった。
その様を見届けたブルマンも、満足気に尻尾をぴんと立てて、犬小屋へと戻っていく。
やや疲れた表情で、誇らし気なブルマンの尻を見送って、剣崎は一つ、溜息を吐いた。
剣立カズマは、こうと思ったら決して決意を曲げない頑固者なのだ。やや意固地とも言える彼の頑固さは、美点でもあり欠点でもあった。
また来るから、と言い残して剣崎も早足でドアを出ていき、それを見送って、マスターは肩を竦めてみせた。