彼女の故郷(ふるさと)
「起きられるかい?」
聞いたことのない声にハッと身じろぎをした私に、ああ、いいよ無理はしなくて、ともう一度声がかけられた。
声が聞こえた方向を見る。すると黒い髪の妖と羊のような顔の妖が揃って私を見ていた。
「何者?」
跳ね起きて身構える。ふらっと身体が一瞬泳いだがなんとか体勢は保てた。へえ、と髪の黒い方が感心したように言う。
「あの怪我の様子では三日は起き上がれないかと思ったが。お前、なかなかだね」
「その身のこなしはどこで覚えた?」
羊顔も親しげに話しかけてくる。
私はなんと答えればよいか少し思案し、口を開いた。
「元は山守をしていた」
「なるほど。やはり」
「山守ならば戦いは得意だな」
頷き合うと羊顔が立ち上がり、奥から何か持ってきた。器に水、皿に桃、それに甘い味のついた栗が少し盛ってある。
「食べられるか」
気遣わしげに尋ねる羊顔に、私は笑って答えた。
「ああ。ありがとう。好物だ」
久しく口に出来なかったものを噛み締める。
懐かしい山の匂いがした。
黒髪の妖は瓜姫、羊顔の妖は笹後という名前であった。
「祟り者か」
そうではないかと思っていたのだ。黒髪の女妖は祟力に優れた者が多い。また笹後は失せもの探しが得意だという。だが
「なるほど、私の素性を探ったのは笹後殿か」
尋ねると首を振った。
「では先ほど私に与えてくれた食物は、誰が整えてくれたのだ」
桃は山の霊木であり、栗は山の神への捧げものとして用いられる。いずれも山の妖の回復に適するもの。だから素性を知った上で整えてくれたのかと思ったが。
「主様の命だ」
「主様?」
「名取周一。お前の縄を切った祓い人だよ」
「あ……もしや二人は式か」
「そう。良い主だよ。私たちを好いてはいないが、決して酷い扱いはしない。仕事にはなかなか厳しい注文をつけるが、良く働けば褒めてもくれる。」
「ほう」
「祓い人としての素質もなかなかのものだ。持って生まれた力以上に、努力や工夫も忘れないからね。こちらとしても安心して働ける」
「それは……頼もしいことだな」
あの優しかった子が―――
なんともいえない気持ちになった。
嬉しい、とは言えない。祓い人は我々にとって実に嫌な存在だ。脆くて弱い人の身でありながら、我々を消し去り傷つける、忌々しいものなのだ。
だが、彼が祓い人となってこの地にやってきたと知ったとき、なぜだろう、私は嬉しかった。これで楽になれる、と心が晴れた。
祓われて消えるのならそれで良い。何の愛着もない蔵を守って、祟りをしないからと縊り殺されるよりは遥かに幸せだ。それにあの子が手柄を立てれば、人はさぞ彼を褒めることだろう。彼の周りには人が集まり、賑やかなるだろう。そうすれば、あの子は寂しかった昔を少し忘れることも出来るだろう……そう思って陣の中に立った。
だが、降り注ぐ雷の中であの子の青白い顔を見たとき、これで良かったのか、と迷いが生じた。
あの子は幼かった頃と違い、明らかに妖を憎んでいた。そうなった理由は容易く察せられた。何故自分にだけは他と違う風景が見えるのか。何故他の人間たちは、自分の見えるものを信じてはくれないのか。理解されない寂しさを、妖などこの世にいなければ、もう少し幸せになれたものを、と恨むことで埋めたのだ。
けれど自分の目に移る妖たちは、人と同じに笑い、泣き、喜びまた、悲しむ。
そんな同じ思いを抱くものを、ただ異形であるという、それだけの理由で消し去ることに、悟り切れずに惑う顔があった。
彼の迷いは私を焦らせた。
そのような顔は止めよ、これで良いのだ……そう言おうとしたとき何者かが飛び込んできた。
たぶんあれは、つい最近見かけるようになった小童とその式だ。あの子が巻いてくれた白い布を巻きなおしてくれた、同じように優しい子ども……
ふと手を見ると、巻かれていた布が新しい白いものになっている。そう言えば、と手を伸ばして触れると、割れたはずの面も直してあった。誰がしてくれたのか。あの子か、小童か。それとも笹後、瓜姫か。
わからぬが、優しい扱いを受けたことが無性に嬉しく暖かかった。
と、瓜姫が口を開いた。
「主様は言った。眠りたいだけ眠らせ、目覚めた後は山のものを与えよ。出て行くというなら止めなくて良い、とね」
「だが」
瓜姫と笹後は顔を見合わせ頷きあう。
「どうだね。仲間にならないか」
「……なに?」
「私たちはそれほど戦いに長けているわけではない。主様もそれは承知で、今のところはあまり強い妖には手を出さないが、この先もそれでやっていけるとは思えない」
「それになにより、主様はお前が傍にいると嬉しそうだよ。私はあんなに優しい顔で妖を見る主様を初めて見た」
二人はそれきり黙った。返答を待っているようだった。
「少し考えさせてくれないか」
長い沈黙の後、私はそう答えた。
二人はもちろん、と答えて静かに消えた。
聞いたことのない声にハッと身じろぎをした私に、ああ、いいよ無理はしなくて、ともう一度声がかけられた。
声が聞こえた方向を見る。すると黒い髪の妖と羊のような顔の妖が揃って私を見ていた。
「何者?」
跳ね起きて身構える。ふらっと身体が一瞬泳いだがなんとか体勢は保てた。へえ、と髪の黒い方が感心したように言う。
「あの怪我の様子では三日は起き上がれないかと思ったが。お前、なかなかだね」
「その身のこなしはどこで覚えた?」
羊顔も親しげに話しかけてくる。
私はなんと答えればよいか少し思案し、口を開いた。
「元は山守をしていた」
「なるほど。やはり」
「山守ならば戦いは得意だな」
頷き合うと羊顔が立ち上がり、奥から何か持ってきた。器に水、皿に桃、それに甘い味のついた栗が少し盛ってある。
「食べられるか」
気遣わしげに尋ねる羊顔に、私は笑って答えた。
「ああ。ありがとう。好物だ」
久しく口に出来なかったものを噛み締める。
懐かしい山の匂いがした。
黒髪の妖は瓜姫、羊顔の妖は笹後という名前であった。
「祟り者か」
そうではないかと思っていたのだ。黒髪の女妖は祟力に優れた者が多い。また笹後は失せもの探しが得意だという。だが
「なるほど、私の素性を探ったのは笹後殿か」
尋ねると首を振った。
「では先ほど私に与えてくれた食物は、誰が整えてくれたのだ」
桃は山の霊木であり、栗は山の神への捧げものとして用いられる。いずれも山の妖の回復に適するもの。だから素性を知った上で整えてくれたのかと思ったが。
「主様の命だ」
「主様?」
「名取周一。お前の縄を切った祓い人だよ」
「あ……もしや二人は式か」
「そう。良い主だよ。私たちを好いてはいないが、決して酷い扱いはしない。仕事にはなかなか厳しい注文をつけるが、良く働けば褒めてもくれる。」
「ほう」
「祓い人としての素質もなかなかのものだ。持って生まれた力以上に、努力や工夫も忘れないからね。こちらとしても安心して働ける」
「それは……頼もしいことだな」
あの優しかった子が―――
なんともいえない気持ちになった。
嬉しい、とは言えない。祓い人は我々にとって実に嫌な存在だ。脆くて弱い人の身でありながら、我々を消し去り傷つける、忌々しいものなのだ。
だが、彼が祓い人となってこの地にやってきたと知ったとき、なぜだろう、私は嬉しかった。これで楽になれる、と心が晴れた。
祓われて消えるのならそれで良い。何の愛着もない蔵を守って、祟りをしないからと縊り殺されるよりは遥かに幸せだ。それにあの子が手柄を立てれば、人はさぞ彼を褒めることだろう。彼の周りには人が集まり、賑やかなるだろう。そうすれば、あの子は寂しかった昔を少し忘れることも出来るだろう……そう思って陣の中に立った。
だが、降り注ぐ雷の中であの子の青白い顔を見たとき、これで良かったのか、と迷いが生じた。
あの子は幼かった頃と違い、明らかに妖を憎んでいた。そうなった理由は容易く察せられた。何故自分にだけは他と違う風景が見えるのか。何故他の人間たちは、自分の見えるものを信じてはくれないのか。理解されない寂しさを、妖などこの世にいなければ、もう少し幸せになれたものを、と恨むことで埋めたのだ。
けれど自分の目に移る妖たちは、人と同じに笑い、泣き、喜びまた、悲しむ。
そんな同じ思いを抱くものを、ただ異形であるという、それだけの理由で消し去ることに、悟り切れずに惑う顔があった。
彼の迷いは私を焦らせた。
そのような顔は止めよ、これで良いのだ……そう言おうとしたとき何者かが飛び込んできた。
たぶんあれは、つい最近見かけるようになった小童とその式だ。あの子が巻いてくれた白い布を巻きなおしてくれた、同じように優しい子ども……
ふと手を見ると、巻かれていた布が新しい白いものになっている。そう言えば、と手を伸ばして触れると、割れたはずの面も直してあった。誰がしてくれたのか。あの子か、小童か。それとも笹後、瓜姫か。
わからぬが、優しい扱いを受けたことが無性に嬉しく暖かかった。
と、瓜姫が口を開いた。
「主様は言った。眠りたいだけ眠らせ、目覚めた後は山のものを与えよ。出て行くというなら止めなくて良い、とね」
「だが」
瓜姫と笹後は顔を見合わせ頷きあう。
「どうだね。仲間にならないか」
「……なに?」
「私たちはそれほど戦いに長けているわけではない。主様もそれは承知で、今のところはあまり強い妖には手を出さないが、この先もそれでやっていけるとは思えない」
「それになにより、主様はお前が傍にいると嬉しそうだよ。私はあんなに優しい顔で妖を見る主様を初めて見た」
二人はそれきり黙った。返答を待っているようだった。
「少し考えさせてくれないか」
長い沈黙の後、私はそう答えた。
二人はもちろん、と答えて静かに消えた。
作品名:彼女の故郷(ふるさと) 作家名:赤根ふくろう