夏、来るらし
その少年の名前をはじめて聞いたとき、どこかで聞いたような気がした。
しかしそれは遠い昔、まだ私が幼かった頃に風の噂に聞いたことがあるような、ないような、そんな非常にあやふやな記憶でしかなかった。
「知ってるのか?」
「いや……はじめて聞いた」
探るように覗かれて答えたときにはもう、勘違いか何かだ、と結論が出ていた。そうだ、知っているはずは無い。
直接血のつながりのない遠縁の子が、身寄りを亡くして一人でいるのを預かっているが、その子の処遇をめぐって家庭内が荒れかけている、ついては少しの間でも良いので預かってくれないか……そんな相談など今初めて聞いたのだから。
「それなら良いんだけど……な、滋君。頼むよ。そう悪い子じゃないんだけど、うちもほら、今年受験のがいるからさ、なにかと差し障りがあってさ。滋君のところは奥さんと二人だけだろ? 静か過ぎるのもアレだろうし……な? ほんと、少しでも良いから」
断ろう、と咄嗟に思った。
身寄りを亡くして十五年もの間、親戚とは名ばかりのほとんど他人の家ばかり、転々として暮らしてきたと聞けば、どのような育ちか大体想像はつく。悪い子ではない、と言ったが本当にそうならとっくに誰かが、養子にでも迎えているはずだ。
そんな子の面倒を、見なくてはならない謂れは無い。
だいたい妻の塔子の負担が重すぎる。実子でさえいろいろ難しいと聞く思春期の子どもを、子育ての経験もない妻が今更なんとかできるとはとても思えない。
だが。
「あ、うちの帰ってきたわ。それじゃ、来週の日曜、連れて行くから。ごめんね、ありがとね。ほんと。じゃ、よろしく」
「おい……」
一方的に電話は切れた。困った。我が家の電話はいまだに黒電話。着信履歴、などという便利な機能は無い。従兄弟の連絡先は、もう何年も使っていない番号帳でも見ないことにはわからない。
やれやれ、と顔を顰めて電話台の下をごそごそやっていると、洗濯物を干し終えた塔子が戻ってきた。
「どうしたの?」
「ああ……番号帳、この辺になかったか?」
「番号帳? 随分使っていないけどたぶんここ……あら、無いわねえ」
塔子もやってきて二人で心当たりを探すがなかなか出てこない。
「誰の番号を探していたの?」
「従兄弟の由之君。なんだか厄介なこと頼んできて一方的に切れたんだ。ちゃんと断らないとまずいから」
「厄介ごとって、お金を貸して、とか?」
「いや。男の子を預かってくれ、と」
「男の子? 確か男の子さんがいらしたわよね?」
「ははは、由人君なら断ったりしないさ。違うんだ。なんでも直接血の繋がりも無いような遠縁の子で、身寄りが無くてあっちこっちの親戚を渡り歩いていたのを三ヶ月くらい前に預かったんだそうだ。その子を来週からウチで面倒見てくれないかと……」
「あらぁ」
ごそごそやっていた手を止めて、塔子は目を輝かせた。
「いくつくらいの子?」
「高校一年って言っていたから……十五か」
「まあ。良かったわ」
「え?」
「あんまり小さい子じゃお世話も大変だし、私の体力が持たないかもって思ったけど、高校生にもなっているならそういう心配はいらないわね。良かった、助かったわぁ」
「塔子?」
「お部屋は二階の奥の部屋でどうかしらね。お布団はお客さんのでしばらくは間に合うとして、あとは……机とか箪笥はどうしようかしら? ああ、とりあえず私の古いので我慢してもらって、来てもらったら話し合っておいおい買い足しましょう」
すっかりその気になってしまったらしい妻に呆れたが、その嬉しそうな様子になんとなく心が動いた。
昔から子どもが好きで、しかも良く懐かれる人だった。実子に恵まれていればさぞ良い母親になったろうに、と亡くなった自分の親が無念そうに言っていたのも思い出す。
とにかくどんな子なのか、少し話を聞いてみてから結論付けても良いかもしれない……私はそう考え、その日はもうその話題に触れなかった。
しかしそれは遠い昔、まだ私が幼かった頃に風の噂に聞いたことがあるような、ないような、そんな非常にあやふやな記憶でしかなかった。
「知ってるのか?」
「いや……はじめて聞いた」
探るように覗かれて答えたときにはもう、勘違いか何かだ、と結論が出ていた。そうだ、知っているはずは無い。
直接血のつながりのない遠縁の子が、身寄りを亡くして一人でいるのを預かっているが、その子の処遇をめぐって家庭内が荒れかけている、ついては少しの間でも良いので預かってくれないか……そんな相談など今初めて聞いたのだから。
「それなら良いんだけど……な、滋君。頼むよ。そう悪い子じゃないんだけど、うちもほら、今年受験のがいるからさ、なにかと差し障りがあってさ。滋君のところは奥さんと二人だけだろ? 静か過ぎるのもアレだろうし……な? ほんと、少しでも良いから」
断ろう、と咄嗟に思った。
身寄りを亡くして十五年もの間、親戚とは名ばかりのほとんど他人の家ばかり、転々として暮らしてきたと聞けば、どのような育ちか大体想像はつく。悪い子ではない、と言ったが本当にそうならとっくに誰かが、養子にでも迎えているはずだ。
そんな子の面倒を、見なくてはならない謂れは無い。
だいたい妻の塔子の負担が重すぎる。実子でさえいろいろ難しいと聞く思春期の子どもを、子育ての経験もない妻が今更なんとかできるとはとても思えない。
だが。
「あ、うちの帰ってきたわ。それじゃ、来週の日曜、連れて行くから。ごめんね、ありがとね。ほんと。じゃ、よろしく」
「おい……」
一方的に電話は切れた。困った。我が家の電話はいまだに黒電話。着信履歴、などという便利な機能は無い。従兄弟の連絡先は、もう何年も使っていない番号帳でも見ないことにはわからない。
やれやれ、と顔を顰めて電話台の下をごそごそやっていると、洗濯物を干し終えた塔子が戻ってきた。
「どうしたの?」
「ああ……番号帳、この辺になかったか?」
「番号帳? 随分使っていないけどたぶんここ……あら、無いわねえ」
塔子もやってきて二人で心当たりを探すがなかなか出てこない。
「誰の番号を探していたの?」
「従兄弟の由之君。なんだか厄介なこと頼んできて一方的に切れたんだ。ちゃんと断らないとまずいから」
「厄介ごとって、お金を貸して、とか?」
「いや。男の子を預かってくれ、と」
「男の子? 確か男の子さんがいらしたわよね?」
「ははは、由人君なら断ったりしないさ。違うんだ。なんでも直接血の繋がりも無いような遠縁の子で、身寄りが無くてあっちこっちの親戚を渡り歩いていたのを三ヶ月くらい前に預かったんだそうだ。その子を来週からウチで面倒見てくれないかと……」
「あらぁ」
ごそごそやっていた手を止めて、塔子は目を輝かせた。
「いくつくらいの子?」
「高校一年って言っていたから……十五か」
「まあ。良かったわ」
「え?」
「あんまり小さい子じゃお世話も大変だし、私の体力が持たないかもって思ったけど、高校生にもなっているならそういう心配はいらないわね。良かった、助かったわぁ」
「塔子?」
「お部屋は二階の奥の部屋でどうかしらね。お布団はお客さんのでしばらくは間に合うとして、あとは……机とか箪笥はどうしようかしら? ああ、とりあえず私の古いので我慢してもらって、来てもらったら話し合っておいおい買い足しましょう」
すっかりその気になってしまったらしい妻に呆れたが、その嬉しそうな様子になんとなく心が動いた。
昔から子どもが好きで、しかも良く懐かれる人だった。実子に恵まれていればさぞ良い母親になったろうに、と亡くなった自分の親が無念そうに言っていたのも思い出す。
とにかくどんな子なのか、少し話を聞いてみてから結論付けても良いかもしれない……私はそう考え、その日はもうその話題に触れなかった。