夏、来るらし
その日の出来事を、私は誰にも、妻の塔子にさえも話さなかった。
話したくなかった。誰かに話したら、その瞬間から自分も従兄弟達と同じ、卑劣な大人に成り下がるような気がしてならなかった。自分に理解できないものはこの世に存在しないものとして退けて、それですべて解決した気になる、そういう卑劣な大人に。
そして、そんな大人に囲まれたこれまでの貴志の人生に思いを馳せた。
真実を話しても信じては貰えず、誤解され、遠ざけられ、時には蔑まれたり疎まれたりもしただろう。それでも彼は負けなかった。餓えたものに身銭を切って食べ物を与えたのは、おそらく彼自身に、餓えた記憶があるからだ。その寂しさ、悲しさがわかるからだ。たとえ人ならぬものであっても、思いは同じだとわかるからだ。
「お前は、優しい子だな。貴志」
わかっていても行動に移せない人が大半の世にあって、彼の行動はなんと清々しく美しいことか、と私は素直に思った。
けれど、問題の根は深い。
貴志がこれまで抱えてきた苦しみや、孤独。それは、私にはこれから先も到底分かりえない、という事実は厳然として存在する。なぜならどんなに理解したくとも、私には彼が見ているものが見えないのだ。見えるふりをするなどというのは愚の骨頂だろう。すぐに見抜かれる。そして彼は私を遠ざけるようになるだろう。彼が欲しいのはそんな生易しい同情や、その場限りの慰めではないのだ。
彼は……恐らく奇異の眼差しと忌避の雰囲気の中で育ってきた彼は、自分がどんな人間であっても抱き締めてくれる手や、庇ってくれる背中の頼もしさ、温かさ、そういうものの味を知らない。それなら自分で自分を守らなくてはならない。けれど幼い彼に出来ることなど何も無かったに違いない。結果、傷つかないための精一杯の防御があの人形のような顔であり、欲をすべて放棄した態度だったのだ。そうやって他から距離を置き希薄な存在になることで、彼はかろうじてこの世を渡ってきた。一人きりで―――
私は覚悟を決めた。
貴志を丸ごと受け入れよう。
隠し事をするのなら、それも彼の一部。それならとことん、どこまでも気付かないふりで付き合おう。無理でも何でも。それが彼の……十五年という年月、誰からも理解してもらえなかった彼の抱いたささやかな願いならば、大切にしてやろう。それがいつの日か、彼の気持ちを僅かでも暖かくさせてくれると信じて。
私は、この思いはなんとなく、塔子も同じなのではないかと思った。
なぜなら、ほどなく貴志が飼いたいと言って連れてきた猫に、塔子は人と同じ食べ物を与えはじめたのだ。
エビフライにイカリングに、味噌汁、サラダ、漬物まで添えた白飯。猫は、到底猫向きとは思えないその食事を、実に満足そうに平らげた。ときには貴志よりもたくさん平らげた。そのことに、塔子は一言も疑問を呈さなかった。
そしてその猫が来た頃から、貴志の部屋から話し声が頻繁に聞こえ出したのも、なんだかどたばたと取っ組み合いをしているような音が聞こえ出したのも、まったく気付かない顔をしていた。ただ、二階からこっそり出て行ったらしい物音が聞こえると、必ずさりげなく玄関に出て鍵を開けておくようにしていた。
貴志のすることに反対は何一つせず、ただ、ときどき怪我をしてきたり無断で外泊したりすると、危ないことをしないの、と叱っていた。
塔子の態度はまったく立派だった。
そうやって、彼が家に来てどれくらい経ったころか。私はふと気がついた。
嬉しい秘密を抱えたときの楽しそうな顔、好きなおかずを前にしたときの笑顔、叱られたときの情け無さそうな上目遣い、ニャンゴローに見せる顰めっ面―――貴志はずいぶん生き生きと、多彩な表情を見せるようになっていた。
「行ってきまーす!」
朝。太陽が元気に照りつける道を走っていく若者。制服の白いシャツが眩しい。
後からぽてぽてと短い足のニャンゴローが追いかける。猫は私に気付くと面倒くさそうに立ち止まるが、必ず私が頭を撫でてやるまで待っている。
まるで私の手から伝わる何かを確かめるように。
そして安心したようにふん、と鼻を鳴らすと、また貴志を追いかける。
一人と一匹が増えただけなのに、なんだか随分賑やかになった気がする、このところの我が家の朝の風景だ。
それが妙に嬉しい気がして、私は庭から貴志の後姿を見送った。
塔子が洗濯物を持って出てきた。
「ねえ、昨日貴志君がね、あのぅ、自転車が欲しいんですが、って」
「ほう。やっとおねだりが出てきたか」
「ええ。でも中古の、一番安いので良いのでって言うのよ?」
「仕方ないやつだな」
私は家に入りながら言う。
「それ、終わったら一緒に見に行こう。最近の若い人の流行を教えてもらって、貴志に聞かせてやらないと」
塔子は楽しそうに頷いた。
三人分の洗濯物が誇らしげに翻る。
夏が我が家に、やって来た。
終