夏、来るらし
私は貴志が完全に見えなくなってから何食わぬ顔をしてそこに行ってみた。あたりの地面を注意深く調べる。どこにもなにも、変わった所はない。枯れてかさかさになった葉が積もり、名も知らぬ虫が数匹、微かな羽音と共に飛び回っている。それだけだ。
わからない。
雑木林の中で、私はただ立ち尽くす。考えても考えてもわからない。貴志は確かに誰かと話をしていた。そして、このあたりの落ち葉がきわめて不自然に、奇妙な動きをした。それをどう考えれば良いのか。
『あの子、見えるらしいんだ。お化けというか、幽霊というか。そういう薄気味の悪いものが……』
従兄弟が言った言葉が頭に甦る。
頭を振った。
馬鹿な。そんなことがあるはずはない。くだらない言葉のために、彼がどれほど辛い日々を強いられたか思い出せ。私までが彼を疑ったら、彼はこれからどうなるんだ。
そう思って心を落ち着け、そそくさと帰りかけた。そのときだ。
目の前で、ひょこっと何かが動いた。落ち葉だ。降り積もる落ち葉が数枚、先ほどの渦巻きのように激しくはないが、ひらっ、ひらっと。人目を避けるように動く。何かを待ち受けるように。
私はハッと気がついて立ち上がると足を早めた。十分進んでから踵を返し、そっと戻る。先ほどの場所のすぐ近くまで身を隠しながら戻ると、岩陰で息を殺した。
ほどなく貴志がやってきた。
手に豆腐屋の包みをぶら下げている。その顔は厳しく、不快そうだ。いつも穏やかに微笑んでいるような彼が、そんな表情をするのが信じられず、つい凝視してしまう。
彼は私には気がつかない。気がつかないまま、先ほど落ち葉が渦を巻いた場所に来た。そして立ち止まるとやおら包みを開けた。
取り出したのは油揚げ、二枚。それを指先で摘んだまま、前方にゆっくりと差し出す。
「ほら、これで良ければ」
ぶっきらぼうな言葉にまたも驚く。だがそれよりもっと驚いたのは。
―――油揚げが……!!
二枚の油揚げは貴志の指先を離れ、二メートルほども漂った。それからやや上に昇り一枚ずつ、するり、するり、とまるで空間に沁み込むように消えた。物を噛むような音が、ごく微かにあたりに響いた。
貴志はじっと動かないが、その目は明らかに何者かを捕らえている。
彼の眼にだけ映る、何者かを。
やがてかさり、と音がした。
見れば先ほど油揚げが消失した空間の、真下に積もった落ち葉が音を立てている。もう渦は巻かないが、立ち去る貴志を見送るように、少し位置を変えている。
私は岩陰を出ると道を通らず、木々の間を縫うように歩いた。
家に帰り着くと、貴志の靴はもう玄関にあった。
「あら、滋さん。どうしたの?」
「ん? ああ、裏の樋がだいぶ傷んできているみたいだから、来週辺り修理を頼んでおこうかと思って、見積もっていたんだよ」
「そうそう。そうなのよ。お風呂場の軒のところでしょ? 台風の季節が来る前に直した方が良いと私も思って……あ、貴志君。お豆腐とがんも、ありがとうね。おつりはお駄賃にしていいわよ」
貴志は二階から降りてきて、いつもの穏やかな顔で塔子に向き合った。
「とんでもない。お小遣い、十分頂いていますから」
「遠慮しなくていいのに」
塔子は重ねて言ったが、貴志は首を振り、微笑みながら塔子の手に釣銭を渡した。五百円玉と百円玉が一つずつ、そして十円玉が三枚。あの店は豆腐が一丁百円、百合根入りのがんもどきは一個九十円だ。塔子が千円札を渡したのなら辻褄が合う金額だ。
が、貴志のズボンのポケットは少し膨らんでいた。小銭入れがしまってあったらちょうどあんな感じになる。間違いない。塔子に釣りを渡す前に、自分の部屋から取ってきたのだ。
油揚げの代金を釣銭に足すために―――
その日、貴志は夕飯の席で珍しく学校の話をした。
窓から見える山の姿がとてもきれいで、つい見とれるんです。
そんなことを繰り返し話した。友達の話は出なかった。
それでも彼は嬉しそうだった。