辻端の老婆 =東方の星=
ふぉっふぉっと笑いながら、老婆は曲がった腰に手を当てながら店じまいして郷の雑踏に消えていった・・・・。
・・・・そして9年近くの月日が流れた今、老婆の言葉が現実のものとなった。
そう、彼にとっての宿命=さだめ=の星。
老婆が”暁の輝星”と予見した者が、確かに東の最果ての地からやって来られたのだ。
そう、眩しいばかりの緋色の髪をした少女の姿で・・・
出会った瞬間、心の臓を打ち抜かれた。
『ああ、この方だったのだ、私がお待ち申し上げていたのは。』
即位祝賀の折、一目拝見しただけで悟った。
己の全てを賭けるに値する、宿命=さだめ=と出会えた事を。
「しかし・・・此れは良くない、良くないねぇ・・・」
目の前の老婆は、水盆の中を難しい顔で覗き込むとぶつぶつと呪を唱えながら水面に十字を刻む。
「あぁ、星の周りに暗雲が断ちこめておる。このままでは星の光も翳ってしまうやもしれん・・・。」
知らず、青年の薄く形の良い唇から溜息が零れる・・・
確かに、輝星の周りには"暗雲"としか言いようのない奸臣達が、先々代の女王の時代から変わらずに仕えている。
心ある同志と、その立ち混める暗雲を晴らすべく計画を立てようとしていた矢先、
天官長の単独行動によりこの不測の事態とあいなったわけだが・・・
国家を同志に預けんがため、己一人で靖共と相打とうとした大宰を誰が責められよう。
・・・・しかも、罪を己一人の物である事と、靖共らを告発する遺書を残し自害したそうだが、到底それが主上の元に届いているとは思えなかった。
・・・・あまりにも多くの官達が彼女を軽んじ、また靖共の支配下にあった。
(このままでは予王の二の舞になるかもしれない・・・
いや、そんな事をさせて堪るものか。絶対に食い止めてみせる!!)
「して、この私にその暗雲が払えましょうか?」
青年の瞳には先刻の憂いとは反対に、挑むような輝きが潜む。
その様子が見えるはずもない老婆の顔には何故か、薄い笑みが浮かんだ。
「・・・・先に、この暗雲を晴らす好機を妨げた者が居るのう。
しかも奴はまだそなたの命を狙っておるようじゃ。
しかし、希望はまだ捨てるでない。
此れより南方の地に豺虎=けだもの=がおる。
そやつの尻尾を掴む事が出来れば、おのずと暗雲も晴らす事が出来よう・・・」
(此処より南の地、豺虎・・・・和州か・・・)
「この命に代えても、暗き雲は散らして見せよう・・・」
片方の口の端だけを上げて、青年はくくくと笑った。
「行くぞ、桓タイ。死ぬ気で私に付いて来るか?」
これはもう、一計あるとしか思えない、彼にしては久方ぶりの
満面の笑みを浮かべながら、後ろに控えていた男を振り返る。
(はぁ~。まったく、この御方と来たらなんでこう危ないと解っている事に
首を突っ込む時ほど楽しそうなんですかねぇ?)
内心呆れながらも、桓タイの顔には苦笑が浮かんでいる。
「で、どちらまで行かれるんですか?」
彼の隣に並び、昼間目星を付けていた小奇麗な宿屋を目指す。
「明朝、和州まで。」
「えっ・・・・」
驚きのあまり、桓タイは一瞬足を停めた。
慶国一悪名高い危険地域の名を聞いて、桓タイの頭の中には、ある諺が浮かぶ。
「・・・飛んで火・・・夏・虫・・・」
思わず口をついて出てきてしまった言葉を、青年は聞き逃さず桓タイを返り見る。
「・・・なんか言ったか?桓タイ?」
すぅっと細めた瞳で青年に睨まれて、桓タイは慌てて首を横に振った。
(・・・でも、流石にこれはお止めしないと柴望様に怒られるんですが・・・・)
自分の目の前に居る青年の、右腕と評されている御方の渋顔が目に浮かぶが、
自分独りの力では、到底この青年を止めるなど出来ようはずもなく・・・
ただ、黙って彼の後に従う。
何か言っても目の前の青年に怒られ、言わなくても此処にはいない御方にお叱りを受けそうなのは確かだった。
桓タイは堪りかねて空を仰ぎ見る。
(・・・こういう時はどうしたら良いのか、誰か教えてくれないかな・・・)
などと、立派な体躯の割りに情けないことを心の中で呟いていたとき、後方から天の救いが現れた。
「・・・いい加減、危険な場所に単独突入する癖は直された方がよろしいかと。」
そこには、頭衣を被った女性(?)と40過ぎの渋面の男が立っていた。
やっと、この青年を止める事が出来そうな唯一の人物を見つけて
桓タイは「ふぅ。」と安堵の溜息をはいたが、
「桓タイ、まず最初にお前がお止しないか。
これだから、二人だけで行かせるのは問題が有ると再三申し上げたのに・・・」
と、お小言の矛先は青年ばかりでなく、桓タイにまで向いてしまった。
青年は『やれやれ。』といった体で、桓タイに首を傾げ軽く肩を上げてみせる。
(『やれやれ。』は、こっちの方ですよ。・・・・それでも和州行きは・・・決行なんですよね?きっと・・・)
「やる。」と言った事は全て実行有るのみ。が、彼の身上ならば
「やれ。」と彼に言われたら即実行。が桓タイの身上でもある。
いくら、元・敏腕の州宰様が諭した所で、結果は変わらない、いや、変えられないのだ。
結局の所、柴望まで巻き添えにして実行。・・・そんな所だろう・・・
(あれ?当初の予定では明日、別の県里-まち-で落ち合うはずだった様な・・・)
今更ながら、桓タイが本来そこに居るはずのない二人を不思議に思っていると、
渋面の男の隣に並び立つ人物が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「凱之・・・・」
頭衣のせいで遠目には年齢さえも不明の女性に見えたが、
目の前でまじまじと見れば、申し訳程度に化粧を施した若い男であった。
大方、柴望に『逗留先は侯と同じ所に・・・』とでも脅されて、急遽こちらに来たのだろう。
『いいよ、仕方ないさ。』と、桓タイは顔の前で片手をひらひらさた。
(この二人に対抗できるほどの器量は、残念ながら自分にもない。
それを、年若いこの麾下に求めても致し方ないだろう・・・・)
諦めて、桓タイは青年と二人で柴望の説教を聞きつつ宿屋街のある、途=とおり=の奥の方へと向かう。
その後を追う凱之の肩は、見ているこっちが気落ちしそうなぐらい垂れていた・・・
「やれやれ、そろそろ帰るとするかのぉ・・・」
老婆は、そんな微笑ましい4人の姿を笑顔で見送り、
水盆の中をしばし覗きこむと店を畳み始めた。
「・・・次に合える時が楽しみじゃ・・・」
くつくつと笑いながら、老婆は器用に道具を背に括り、里閭の方へと歩き出した。
閉門ぎりぎりの時間に、県里の外に出て行く老婆を、 衛士=えじ=が訝しく見送る。
低く傾いた夕日が、歩路=みち=を行く老婆の影を長く伸ばす。
そして・・・その影に吸い込まれるようにして、老婆の姿は消えて行った・・・・
もうすぐ、慶東国で一番暑い夏になろうとしていた、ある晩春の日の出来事であった・・・・
------おまけ------
「このとおり、後生だ。」
宿屋一階。食堂の片隅で青年が両手を合わせて桓タイに頭を下げる。
作品名:辻端の老婆 =東方の星= 作家名:砂漠えるふ