水の器 鋼の翼4
3.
破滅のビジョンは、再び現在のネオドミノシティに移った。視点は青灰色の大きな建物に近づく。KC社の社屋には負けるが、それでもシティの中では十分目立つ建物だった。
「ここは?」
「ネオドミノシティの治安維持局です」
治安維持局の一室。そこでは記者会見の真っ最中だった。会場に数多くのマスコミが詰めかけ、治安維持局関係者を容赦なく質問攻めにしている。対する治安維持局は、サテライトのセキュリティが見せた傲慢さはどこへやら、何ともしおらしい様子だ。
「現在、治安維持局は、サテライトの扱いについてマスコミや世論から強い批判を受けています。サテライトに生存者を取り残したまま、救助もせずにゴミ処理場兼流刑地として運用するのは、さすがに人道的にまずかったようです……」
建設途中で放棄された橋。やはりあの出来事は上からの圧力のせいだったのだ。サテライトでもがき苦しんでいた歳月を思い、レクスはぎゅっと右の拳を握りしめた。
一人の初老の男性がズームアップされた。治安維持局側の中央の席に座る彼は、マスコミの質問にしどろもどろになっている。Z-oneは、あれが今の治安維持局長官なのだと言った。
「彼は今までよく働いてくれました。治安維持局長官として。イリアステルの仮初の長、第三百五十九代星護主として。しかし、とうとう我々のことを話さざるを得ないところまで追いつめられてしまいました。……それでは非常に困るのです。我々は、舞台裏にいるべき存在なのですから」
Z-oneの台詞の最後が、一段と低い声音になったようにレクスには聞こえた。不審さにレクスがZ-oneに真意を問いただそうとした時である。
刹那、白い空間がぐらりと揺らいだ。
よりによってこんな時に。レクスは歯噛みした。あの揺らぎとざわめきが訪れた時はきまって、精神に異常をきたしてしまうのに。
襲い来る衝撃を恐れ、レクスは背中を丸め両手で耳を塞ぎ、目を閉じた。だが。
《ひっ……ぎゃあああああっ……!》
ざわめきをかき消してしまうほどの絶叫。レクスははっとしてビジョンを見上げた。
真っ先にレクスの視界に飛び込んできたのは、目を疑うような光景だった。何と、長官の身体が足元から消えて行くではないか。長官は消えゆく足を見ては取り乱し、崩れる手指を眺めてはいやいやと首を振る。恐怖が張り付いた顔では、口がぱくぱくと声にならない声を上げる。――消えたくない、助けてくれ、消えたくない、と。
あのざわめきは今や悲鳴そのものとなってレクスの元に押し寄せてくる。長官の身体が腰までになる。生首だけになる。頭頂部も何もかも消える。悪夢のような光景から目をそらすこともできないまま、レクスの身体を揺らぎとざわめきが突き抜けた。
幻を見た。
知らない内に、レクスはあのモーメントの前にいた。彼の視界に最初に飛び込んできたのは、制御装置を操作する不動博士の後ろ姿。慌てて辺りを見渡せば、右隣にはルドガーが、左隣には生まれたばかりの息子を抱いた不動夫人が立っているのが見える。主要メンバーを取り囲むようにして勢ぞろいするのは、彼らの元で働いて来た研究員やKCが呼んだマスコミ連中だ。
これはモーメントの試運転の日のことだ。仮のものではない、第一号モーメント「URU」のお披露目を兼ねた正式な。
納得しかけて、レクスはすぐさま打ち消す。モーメントの研究開発は、モーメントの起動に伴う異常気象を憂いた不動博士により、実験段階で凍結されたはずだ。だから、こんな日が来るなんてあり得ない。そう、あり得ないのだ。
混乱するレクスを一人置いてきぼりにして、モーメントのスイッチが入れられる。この場の誰もが待ちに待った瞬間。――だが、モーメントはMIDSメンバーの目の前で逆回転を始めたのだ。
溢れだす虹色のモーメントエネルギー。辺りはたちまち大パニックになる。MIDSは総力を挙げてモーメントを制御しようとするも、一旦始まった暴走は収まらない。とうとう、不動博士が腕を振り上げて大声で叫んだ。
『皆! 一刻も早くここから避難するんだ!』
研究員や観客はその命令に忠実に従い、先を争って部屋を出て行く。だが、レクスはそんな彼らについて行くことができなかった。モーメントと不動夫妻を残して去ることに躊躇いを感じたのもあったが、何より兄の行方が今の騒ぎで分からなくなってしまったためだ。
『君に制御カードを託す。レクス、君は生き延びるんだ。そしていつの日か、私の代わりにモーメントの暴走の原因を突き止めてくれ』
レクスにドラゴンのカードを差し出す不動博士。
『お願いします! この子を……どうか安全なところに……』
大切に抱えていた子どもをレクスに預け、涙ながらに頼む不動夫人。
動かぬ足を叱咤して立ち去る寸前、軽い爆風が起こり、思わずレクスは出入り口付近でモーメントの方を振り返る。目がくらむほどの光の中、辛うじて見えたのはモーメントに戦いを挑む二人のシルエット。
それが、レクスが不動夫妻を見た最後だった。
右腕には暖かな体温を持つ子ども、左腕には冷えた感触を返す「腕」のカプセル。それらの重みと、それ以上に重い使命を抱えてレクスはシェルターに走った。
あの揺らぎとざわめきが訪れる度に、レクスの記憶は切り替わる。まるで、紙芝居をめくるかのように。腕の中に抱える重みも、ある時は暖かな感触がなくなり、かと思えば冷えた方の感触がなくなり、たまに両方の感触がなくなって手ぶらになる。ついに左腕にあの冷たい重みのみを確実に受け止めた時、レクスはあのシェルターにたどり着いていた。
幻を見た。
しかし、あれは本当に幻だったのか、もうよく分からない。