水の器 鋼の翼4
5.
――私たちの夢は神々に利用された。
五千年振りの戦争の舞台装置として、赤き竜と邪神に。彼らの盤上の傍でゲームの行方を観覧しているのは、時を操る白い神。彼は虎視眈々と自分のターンを狙っている。人類の未来のために人類の現在を生贄にして。
矮小な人間の身で運命に、強大なる神の力に逆らうことはできない。叩き潰され、跡形もなく消し去られるのが関の山だ。
だが、もし人間が神の力を手に入れられるなら。Z-oneがやってみせたように、人間の運命をいとも容易くねじ曲げられる力があれば、あるいは。
治安維持局長官の地位を正式に引き継いだレクスが最初に着手したのは、KC本社の掌握だった。
人員を大勢引き連れて、レクスはKC本社へと乗り込んだ。久しぶりに訪れた古巣にも、レクスと再会した瞬間のかつての上司の顔にも、意外と何の感慨も湧かなかった。
上司たちは、一様にばつの悪い顔をしていた。当然だ、サテライトに置き去りにし野たれ死んでいるはずの部下がここに舞い戻って来てしまったのだから。しかも、自分たちより立場が遥かに上になって。
モーメントの開発研究の速やかな放棄と生存者の救助要請の黙殺。それが、KC本社とイリアステルが交わした密約だった。モーメントのことをなかったものとするなら、あの未曽有の大人災もなかったものにしてやると。 しかし、レクスにとってそれはもうどうでもいいことだった。
KCにはこの先せいぜい役に立ってもらおう。そのためにも、まずは無能な人材の一斉整理からだ。
必死にゴマをする元MIDS本部長を冷ややかな目で見つつ、レクスは密かに考えた。
……リストラされた社員の恨み節を聞く暇もなく、次の作業に取り掛かる。
治安維持局、長官の執務室。白いカードを一枚ずつ収めたケースとレクスの顔を交互に見やって、特別調査室室長のイェーガーはあわあわしていた。
世界にそれぞれ一枚しかない希少なドラゴンカードが三枚、イェーガーの手にある。それだけでも大変なことなのに、レクスが下した命令もまた、彼の動揺に拍車を掛けるものだったのだ。――これらのカードを三枚とも別々のルートで売り飛ばし、野に放て、と。
「よろしいのですか、本当に? 何ともったいない、これらは相当価値のあるカードでしょうに。この局舎をもう一軒建ててもまだまだお釣りが来ますよ」
「ふふ、大丈夫です。我々人間より、このカードたちの方が人探しの才能に長けている。ここから先は、自分たちの主は自分たちの足で探してもらいましょう」
自分はこのドラゴンたちの運び屋でもあったのかもしれない。レクスはふと思った。振り返ってみれば、モーメントのコードネームの選定段階から色々と仕組まれていた気がしてならない。ドラゴンの内、《エンシェント・フェアリー・ドラゴン》が未だ行方知れずなのが気にかかるが、伝説に従うならあれも神のしもべの一体だ、自分の主人となる者を探し当てることくらいはできるだろう。
「くれぐれも、追跡調査だけは怠らないように。最終的にドラゴンの所持者になった者にシグナーである可能性があります。その人物が分かり次第、接触を図りましょう」
「はっ」
「ああ、それと……カードの売上金は取って置いて下さい。何かを建てる時の足しになるでしょうから」
いずれシグナーは現れる。例え何年かかろうとも、赤き竜の運命の元、彼らのしもべのドラゴンに導かれて。
Z-oneは約束を違えなかった。レクスが必要とする力を、白装束のしもべを通して惜しみなく与えてくれた。レクスの屋敷の地下にあるこの赤き竜の神殿も、その内の一つだ。
しかし、シティとサテライトを結ぶ橋の建設だけはできなかった。現在、サテライトには目覚めた邪神とそのしもべたるダークシグナーがいる。邪神を封印することなくサテライトを解放してしまえば、シティだけでなく世界各地にもダークシグナーの魔の手が及ぶ。サテライトに住む者よりも更に多くの人々が、邪神の生贄になってしまうことだろう。頭では理解している。しかし……。
治安維持局長官として、レクスはよく知っている。サテライトでは今もなお脱走者が発生していることを。その度にセキュリティに捕まってマーカーを付けられ、散々こき使われた挙句に強制送還されていることを。捕まった者の中には、収容所に送られた時点で消息不明になる者もいる。
「兄さん」
天高くそびえ立つ神殿。朝が訪れることがないこの世界は、いつ来ても満天の星が瞬いている。神殿を取り巻く赤き竜の紋章から溢れる赤い光が、暗い空を赤々と照らしている。空に一際明るく輝く赤い星は竜の星。伝説によると赤き竜はあの星から地球へ降臨したのだそうだ。
レクスは今しがたこの最上段に登って来たばかりだった。険しく長い階段を一歩また一歩と進み、生身と機械の腕の中に「腕」を大事に抱えながら。
ネオドミノシティの掌握も一段落終えたところで、レクスは「腕」を神殿に安置することに決めたのだった。俗世から隔絶されたこの神殿はこの世で一番安全な場所だ。ここならば、「腕」ごとドラゴンヘッドの痣を失くす心配をしなくても済む。それに、それ以上に思うところがあったのだ。
祭壇に安置された「腕」は、神殿の中で蛍光色のかがり火となった。レクスは名残惜しげにカプセルにそっと手を触れて切々と語りかける。
「兄さん。「あなた」はいつだって私を守ってくれてたんだね。シグナーの資格のない私を、ダークシグナーになったあなた自身から。Z-oneの歴史改変から。だけど、私はいつまでも「あなた」に守られてばかりじゃいられない。成し遂げたい目的ができたんだ」
レクスの目的の元、ネオドミノシティは新たな体制へ移り変わった。上はシティのトップス、下はサテライトに至るまで、絶対的な階級社会へと。KC本社も有能な人材を何人も招へいし、シティのモーメント化計画は着々と進められている。KCのモーメント研究開発部員の阿久津もその中の一人だ。モーメントのこととなると見境がなくなるのが珠に瑕なのだが。それでも、モーメントの研究開発にに精一杯の情熱を注ぐ彼を見ていると、レクスはどこかむず痒い気持ちになる。そして、心に鈍い痛みを感じるのだ、かつての自分自身をそのまま見ているような気がして。
「叶うのなら、私は研究に明け暮れていたかった。兄さんや不動博士と一緒に、どこまでも見果てぬ夢を追い続けていたかった」
しかし、運命の輪は回り出してしまった。もはや止めることはできない。
次にこの「腕」に触れるのは、自らの念願が成就する日。その時には、あれだけ恐れた死の誘惑の手も喜んで取ってやれるだろう。