誰にもあげない
シェリルは、ほうっと息をついて、テーブルの上の分厚いコピー用紙の束を捲った。数ページごとに変わる、たくさんの筆跡。誰がどのページを書いたのかなんて、どこにも書いていない。誰が自分の為に、どれだけのことをしてくれたのかということもわからない。
これだけのことをしたのだからその見返りを寄越せ、という契約がない、ただの好意。十七年生きてきた歴史の中で、そしてショービジネスの世界に身を置いてきた自分にとって、それがどれだけ貴重なものだったか。
今まで誰も入れたことのない自分の場所に、勉強を見る為だけに迎え入れてくれたアルトに、そして彼がこともなげに「仲間」だと言った、自分の為にノートを書いてくれたクラスメートに、それを伝えられることはあるだろうか。自分に向けてくれた、無償のその思いがどれほどに、この心を温めてくれたかを。
ぱらぱらと紙の束を捲っていた手がふと止まった。一般教養科目のノートに書かれた、この筆跡を知っている。
「……もう。あなただって今は随分と忙しいでしょうに」
シェリルは、困った子、とつぶやいて笑った。
シェリルは今までもらったファンレターを、ただの一通も消去していない。今時珍しく、直筆でもらった数少ない手紙は、電子書類にして保存した。
フロンティアに来てから、シェリルはファンレターのデータの中から、ある名前を探した。そして見つけた、フロンティアに住む少し年下の少女から送られてきたファンレターは、笑ってしまうくらいにたくさんあった。しかもレターなどメールで済ませればいいのに、わざわざ船団間郵便を使って送ってきた、直筆の手紙ばかり。一枚ずつ違う可愛らしい便箋に、直筆の文字でびっしり書いて送ってくる手紙は、必ず同じ文章で締めくくられていた。私もいつか、シェリルさんのような歌手になりたい、と。
その子が大好きな彼は、今自分の横で眠っている。
アルトが目の前にいるときのランカを思い出して、シェリルはつい笑ってしまう。赤くなったり笑ったり泣きそうになったり。顔に思っていることが全部書いてあるような子。怖い、と言ってアルトの袖をぎゅっと握れる素直さが、すこしうらやましくもあり、微笑ましくもあり。
けれどそんな可愛いあの子にさえ、この人のことだけはどうしても渡したくないと思ってしまう。そんな、情けないほどに強欲な自分がいる。
彼女のことは好きなのに、同じ男の子を好きになってしまったというだけで、女の子同士というのはなんて難しい。
「……きれいな顔、してるわよねえ」
起きているときよりも幾分かあどけなく見えるアルトの寝顔を、ひとさしゆびでつついてみる。
誰にもふれさせたくない。空を見あげるあの瞳も。誰にでも、見境なく注いでしまうしまうやさしさも。
そのどちらも、シェリルにだけ向けられる、ということは決してなくて。そんな彼だからこそ好きになったのだけれど、たまには、他の誰にも見せていない顔を、自分にだけ見せてくれればいいのにと願ってしまう。
「アルト」
きっとこの唇には、まだ誰もふれていない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなって。シェリルは衝動的に、彼の唇を奪いたくなった。その頬にふれて、顔を近づける。
あと少しで唇がふれようとした、その至近距離で。いきなり、ぱちりと、眠っていたはずのその目が開いた。
「……きゃあっ!」
シェリルが驚いて飛び退いた。そのシェリルの様子に驚いて、アルトも声をあげる。
「うわっ!?」
「な、なんで突然目を醒ますのよっ」
後ろめたさと恥ずかしさで、頭が爆発しそうに熱い。
「突然って知るかそんなことうわああっおまえなんでその格好!」
アルトが目を白黒させて叫ぶ。
「え」
アルトの言葉に、自分の着ている服を見下ろして。そしてシェリルは我に返った。大きめのアルトのシャツはボタンをひとつしか留めていなくて。その下に身につけているのは、ひらひらのレースの下着だけ。
「きゃああああああっ、見ないで――――!」
言葉と同時に思わず手が出ていた。ぎゅっと握って勢いに任せて突き出したこぶしの先に、がつっと当たる確かな手応え。
「痛えっ!」
「あ」
「何すんだよおまえはあっ!」
アルトの怒声が、狭いその部屋に響き渡った。
「ご、ごめんね……」
シャツをちゃんと着直して、脚を隠すように大きなバスタオルを掛けて。シェリルはおそるおそる、クリーンヒットしたパンチで腫れた頬を濡れタオルで冷やしているアルトを見上げた。
「ったくおまえは本当に……」
一応シャツのボタンも全部とめたし、バスタオルで下着も脚も隠しているが、さっき見てしまったものを忘れられないのだろう、目をそらしたまま、シェリルを直視できず、赤くなりながらアルトがぶつぶつと文句を言う。
「まったくとんだとばっちりだ」
「だからゴメンネって……」
シェリルも、先刻の寝込みを襲ったキス未遂と、そのときの自分の格好とを思い出すと、頬から熱が引かず。
赤くなったまま暫くふたりで目線を彷徨わせながら、シェリルはアルトをちらと見て思った。もしかしたら、こんなアルトは、誰も見たことがないかも知れないと。そう思うと余計恥ずかしいやら、うれしいやらで、だんだん訳がわからなくなって。思わずシェリルは口走っていた。
「……あ、あたしのあんな格好、見たのあんただけなんだから」
「見せられた、の間違いだろ! ……え、俺だけ?」
「えっ」
「なっ」
ふたりで目を見合わせ。思わずシェリルは叫んだ。
「わ、忘れなさい!」
「忘れられるかよ!」
「え?」
「あ……」
以前もこんなことがあったような気がすると、頭の隅で思いながら、シェリルは両手で自分の頬をおさえた。熱を出したのではないかと思うほど頬は熱いし、胸がどきどきして、呼吸すら不自然になってくる。
「……大体おまえ、ステージ衣装なんか、殆ど下着と同じじゃねーか!」
「馬鹿! あれはホログラムよ!」
「それに、誰にも見せてないって……」
「…………もうっ!」
「シェリル?」
シェリルは脚に掛けていたバスタオルが落ちるのも気にせず、すっくと立ち上がると、布団に凭れて座ったままのアルトに近づき、その頬にふれた。そのまま、強引に唇を重ねる。
わずかな間、時間が止まったような気がした。
そして、唇を離して、目蓋を開けると、驚いたアルトの顔が目に入る。
「……シェリル」
だからシェリルは、そんなアルトの額を、パチンとひとさしゆびで弾いた。そして嘘をつく。
「馬・鹿・ね! 誰にも見せてないわけないでしょ!」
「――ったく、おまえは!」
我に返ってアルトが文句を言おうとしたとき、浴室からピーピーと、機械音が聞こえてきた。
「あら。乾燥終わったわ」
シェリルはまだ何か言いたそうなアルトを尻目に、浴室へ駆け込んだ。
乾いた制服をきっちり着込んで、浴室を出ると、アルトが窓から夜空を眺めていた。
「星が見えるのね。雨は上がった?」
何ごともなかったようにシェリルが声をかけると、アルトが振り向いた。