比翼連理 〜外伝〜
滄溟の彼方
冥府の王は誘われるままに、深い眠りへと堕ちていく。
悠久の眠りは美しき闇の支配者の悲しみを癒したりはしない。永劫の悲しみと苦しみを与え、憎しみを育む、呪いの眠りでしかないのだから。
悪夢にうなされ、蝕まれていく心は腐毒の闇を生み出し、より濃く芳醇な闇へと変化するだろう。狂おしいほどに求めて止まぬ純粋なる闇。
どれだけの時刻(とき)を刻めば、手に入れることができるのか......。
『―――永遠に不可能だろうて』
片翼の嘲笑う声が響き渡った。鋭い眼差しで空を睨みつける。
『......口を噤むがいい、タナトス』
ぎりりと歯噛みをしながら片翼を叱責すると、嘲弄と共に片翼の気配が遠ざかって行くのを感じた。褪めた金の瞳を再び闇の主へと差し向け、身動ぎひとつすることなく深い眠りについた輝石の身体へと指を伸ばす。
―――クロノス王の血を最も色濃く引いた、美しきその姿。
感情を映さぬ瞳はしめやかに訪れる夜の帳の如く、静かに心の奥深くまで忍び込み、見るものの心を惹き付けてやまない。そして、何事をも恐れぬ強き魂はゼウスでさえも手出しできぬ力を持っている。ゆえに天上の神々は冥府の王を畏れ、忌み嫌った。
見えぬ鎖で魂を縛り、ひと時の自由さえも与えることのない残酷なこの男を皆、畏れていた。そして、一方では密かに慕い、己が抱く闇への憧憬をこの男に投影し、心惹かれている者たちも多かったことを私は知っている。
冥界の奥深くにその姿が隠された時、どれだけの神々の嘆き悲しむ声を聞いたことか......。
求めても、決して与えられることのない想いに狂い、奪われても、奪うことのできぬ冷たく凍る心に焦がれるのだ。
時折、冥界深くから現われ出でては悪戯に神々の心を掻き乱す罪深き冥府の王。その存在は私にとっても実に疎ましい存在であったはず。オリュンポスの神々との争いの中、噂に違わぬ美貌の主と相対し、闇の剣の衝撃が我が身を貫くその時まで。
我が身を侵食していったのは、妙なる闇の調べと刃先から伝わる闇の意思。
私を映す、凍る眼差しと共に囁かれた虚無の声に囚われた。
『余の元に参れ。我が名はハーデス。冥府の王......眠りの神ヒュプノスよ、答えよ』
―――その瞬間を忘れたことなどない。
『支配』という名の呪縛とともに私の心が奪われた刹那の時を。
黒曜石の輝きを放つ絹糸の如く滑らかな黒髪を掬い取り、指に絡ませ恭しく口づける。
純粋なる真の闇を我が手に抱く日が訪れることを夢想する。たとえ支配され、征服されるという屈辱を受ける身であったとしても。
共に在れる我らを多くの神々が羨望と嫉妬の眼差しで見つめていたように、夜の一族である我ら双子もまた、闇の滄溟(そうめい)に抱かれながら、悦びと憎しみの眼差しで冥府の王を見つめ続けた。
いつしか、その大いなる闇の主のすべてが、私の腕の中だけにあって欲しいと冀うまでに。
遠く彼方を見つめる眼差しが、ただ我ら双子のみを......私だけを映す日々が訪れることを望む。
「―――おやすみなさいませ、ハーデスさま」
そっと白い貌の輪郭に沿うように指先を滑らせ、形の良い口唇を撫でる。指先から伝わる柔らかな感触に打ち震えながら、眠る主の額へと唇を寄せた。
唇が白い肌に触れる一歩手前で止める。枯渇の唇を吊り上げ、薄い笑みをひとつ零すと耳元へ滑らせた。
「......お目覚めになられる時まで、とっておくことにしましょう」
―――その時が、いつ訪れるのかはわからないけれども。
滄溟の彼方で待つのは貴方が冀うものではなく、この私......。
フッと昏く翳る笑みを浮かべ、妖しい輝きを放つ金色の瞳を差し向けた後、闇の主が眠る柩を静かに閉じた。
Fin.