人の話は聞かなきゃね!
どうやら本を読みながら昼寝をしてしまったらしい。暗闇に慣れた目に明かりが眩しい。目が慣れてから本を閉じながら立ち上がってテーブルの上に置く。振り向くと、この部屋へ複数のメイドが大小の荷物を運び込んで来ている。
(何事?)
と思いながら眺めていると、運搬の指揮をしていたメイドが、
「お支度のお手伝いをさせていただきますので、もう暫くお待ちくださいませ。」
と近づいてきた。そのまま鏡台の前に誘導されて、頭のリボンを外される。櫛で髪をすきながら、どういう髪型にしたいかと聞かれた。
全くの不意打ちで状況の読めないアリスに答えられる訳も無く、お任せしますと言うしかない。
その後、幾人ものメイドに取り囲まれて、息をもつかせぬ展開であっという間に全身の身支度が整った。手を引かれ大きな鏡の前で初めて自分の姿を映した時は、我ながら見惚れてしまった。
顔の両横に子房に取り分けられた髪は、カールしてあり、それ以外の髪はまとめてアップにしてあり、正面には銀に輝く髪飾り。メイクも薄いながらもアリスの大きな目を可愛らしく強調しており、やや薄めのピンクのドレスは色こそ甘いものの、胸元もかなり開いている。細い肩紐のドレスは左の脚の付け根あたりに飾りのポイントがあって、後は後方に行くほどにレース使いの丈が長く伸びている。
いつもより大人な感じの自分に照れる。
それにしても一見ダイヤに見えるネックレスとおそろいのイヤリングが重い。
「これって本物・・・かな。まさかね。」
隣で細かな手直しをしていたメイドが一礼をして退く。代わりに視界に入ってきたのはブラッドだった。
「これは美しい。綺麗だよ、お嬢さん。それでは仕上げにこれを」
そう言うと、左手をとられ指に冷たい感触がした。ブラッドの唇が指に触れる。
慌てて振り解こうとしたが、慣れない高いピンヒールのせいでバランスを崩してしまい優しく抱きとめられる。耳元で危ないよと囁かれると全身が硬直する
「さて、出かけるか。エリオット頼んだぞ。」
アリスは鏡の前から、ブラッドに呼ばれたエリオットにお姫様抱っこされる。
「ああもう!下ろしてください。ちゃんと歩けますからっ・・」
「ちょっ、アリス暴れたら危ないから!」
「エリオット!急ぐぞ。」
土地勘が無い上、夜の闇で全く以って何処に向かっているのかわからないが、2人とも急いでいる様子だった。暫くすると木々の間に灯りが見えてきて、三角の大屋根がシルエットで浮かび上がる。
「アリス、着いたよ。」
エリオットに地上に下ろしてもらうと、重かったでしょと言いながら礼を言った。
「何言ってんだアリス。もっといっぱい食って肉付けろよ。ガリガリで骨が当たってたぞ。女はもうちょっと出るとこは出て・・」
「五月蝿いわね。余計なお世話よ。はいはい、貧弱で悪かったわね。わかりましたから。」
アリスは不機嫌な声で、ドレスのすそを気にしながらエリオットの話を途中で遮る。ハッと気付いてエリオットをそろりと見上げると、エリオットも驚いた表情でアリスを見ていた。明らかに予想外の反応に対してのものだ。
つい時計塔でのエースやペーターとのやり取りの癖が出てしまっていた。エリオットとは気安く話すような間柄でも無いのにまずい。非常にまずい。ご機嫌を損ねて、また銃を突き付けられるのは御免だ。
「あ・・ええっと今のは聞かったことに。ごめんなさいっ。」
アリスはエリオットの様子を見ながら後ずさり、間合いが開いた所で少し前にブラッドが消えた門の方へ飛んで入った。一息吐く暇も無く引き返して来たブラッドに急かされる。
「何をしているんだお嬢さん。まだこんな所にいたのか。」
急に腕を掴まれて引っ張られたせいでよろけてしまい、今度はブラッドに抱き上げられる。
「失礼するよ。」
此方の返事も待たず、先を急ぐ様子の男に今は黙ってされるがままになっているアリス。
いったい何を急いでいるのかは分からないが、此処から先は自分が引き受けた事なのだから、家主の面目を潰す様な事があってはならないと気を引き締めるのだった。
それにしても、先程も鏡の前で感じたのだが、この男は薔薇の香水でも付けているのだろうか。だとしたら大変なナルシストなのでは?と、全く関係の無い事を考える。
アリスの消えた方向を見ながら、エリオットは独り言を言っていた。
「何だよ、あいつ結構面白れーじゃん。敬語ばっか使ってっからてっきり嫌われてるとばっか思ってたぜ。」
その表情は嬉しげにみえた。
「此方でございます。」
高さが三メートルはある両開きの扉の向こうで、まず目に入ったのが高い天井から下がる大きなシャンデリア。それを映す黒い大理石の長いテーブル。照度を落とした室内で、帽子屋の豪華さとは比較にはならないが、個人宅の調度としては贅沢な物が計算された配置で並ぶ。
一つ一つが必然。そしてそれらの中に違和感無く存在している自分以外の人間。
贅沢な調度に囲まれ泰然としている招待客の視線が一斉に集まる中、ブラッドにエスコートされ室内に一歩踏み入れる。靴底に固い感触が伝わり、カツンとヒールが床を打つ音が響いた。廊下は分厚い絨毯敷きだったが、今はアリスの立てる靴音だけがこの部屋の唯一の音といって良い。
この広間に入る前に、ブラッドが小声で言った。
「ただの仲間内の食事会だから、何があっても落ち着いていればいい。今日はお嬢さんが一緒に来てくれた事に意味があるんだから。」
なのに室内装飾を見ただけで呑まれてしまっている。人を値踏みするような視線が痛い。
「遅れて申し訳ありません。思ったより彼女の準備に時間が掛かってしまいました。今日は是非、私の大切な人を皆様に紹介したい。」
遅れて入ってきたにも関わらず、この場の全ての者が自分に注目するのが当然という態度で話す男。一呼吸置いて、ブラッドは少し微笑んだように見えた。
アリスは、この思わせぶりで突拍子も無い紹介の仕方に大きく不安を覚える。私の大切な・・・ってどういう意味。何を言おうとしているの。
「隣にいる女性が、私の婚約者の アリス・リデル嬢です。」
その場は一気に騒然となり、悲鳴を上げたり泣き出す若い女性客もいた。
もちろん紹介された本人、アリスも当然ながらパニックになっている。自分は一体いつ結婚を申し込まれたのか、必死で記憶のファイルを繰るが全く身に覚えが無い。何故こんなことを言い出したのだろう。これは何の集まりなのだろう。
全く話の筋が見えない。選りにも選って何て事を言い出してくれたのだ。このサプライズの回収は、ブラッドが責任を持ってくれるのだろうか。
アリスはかろうじて立ってはいたが、表情まではどうなっているか自分でも責任が持てない位に動転している。
初老の男性がブラッドに近づくと、意外に若くして身を固める決心をしたもんだと笑いながら肩を叩き、急に声を潜めて話し始めると、そのまま未来の夫をどこかへ連れて行ってしまった。
一人残されたアリスは途方に暮れる。
「帰りたい・・・」
今は、好奇心旺盛な年配のご婦人方に囲まれて質問攻めに遭っていた。
ブラッドの意図が見えない状況で、どうやって答えろと?混乱は続く。
作品名:人の話は聞かなきゃね! 作家名:沙羅紅月