入水だろうか
綱吉は中学2年になった。相変わらず新聞配達と店番を続けて、馴染みのお客さんには顔も名前も覚えてもらって会話がそこそこ成立するようになった。
中学での綱吉の立ち位置は小学校とはがらりと変わった。娼婦の子から、親のいない子へとなったのだ。入学の時の書類を見て、教師達の間では誰の家で暮らすかと会議にまでなったらしかった。彼らは良くも悪くも善人である。人に施しを与える余裕のある生き方をしてきて、綱吉のように子供のうちから働くというのは彼らにとっては悲劇なのだろう。
小学校でのこともあり、綱吉は教師たちの誘いを断ると初めから決めていたが、それにはかなり苦労させられた。母の客のように一度断ったぐらいで身を引くことはなかった。
そんな教師達の特別扱いを敏感に感じたのか、天涯孤独なのが風に流れたのか、生徒たちも綱吉の扱いは少しだけ丁寧で、随分と穏やかな学校生活を送れている。
母の死の報告をした日、山本先生に渡された電話番号と住所の書かれた紙は、綱吉の生徒手帳の中でお守りになってはいるが、一度も使われていない。山本先生も去年小学校を変わり、遠いところへ転任してしまったらしい。
朝綱吉は一度事業所に行って新聞を受けとると自転車を借りて町に配達する。終われば自転車を返しに行って、時間まで朝御飯をもらってそこで休んで学校へ行く。
学校から帰るとそのまま店にでて奥にあるレジに座る。そんなに客の入りが多くもないのに夜まで座ってないといけないから、綱吉はその間宿題を片付けることにしている。ゲームや漫画は怒られるが宿題だと小遣いをくれるおじいちゃんが出てくる。
夜は働けない。綱吉はのんびりとお風呂を借りてご飯をもらい寝るだけだ。悪天候なら特に新聞配達が辛いからじっくりと休む。
土日は日中から店に出る。
一週間のサイクルはほぼ同じだ。変化と言えば、店番の間勉強をやるうちに自然に成績が少し向上したくらいだ。
ちりりんと鈴の音がして、来客に綱吉は顔をあげて出迎えた。いつも一言多いおじいさんが今日辺り来るだろうと思っていたからだ。綱吉は口うるさいその人が案外好きで、来ればいつも嬉しそうにいらっしゃいと声をかける。それなのにその人は、「俺に気づかねぇくらい気合い入れて勉強しろ」と言うのだ。最初こそ苦手で、憂鬱でしかなかったそのやり取りも今は次を指折り数えている。
店に入ってきたのは違う人だった。落胆がバレないように綱吉は笑顔を保ちながらごまかす。
「いらっしゃいませ」
客は男性で、この店には珍しく上品な人だった。年は40を越えたころかもしれない。祭りでもないのに着物を着ていて立っているだけで絵をみている錯覚に陥る。
「きみ、名前は?」
一瞬何を言われたか理解できなくて、そもそも自分に言われたのかも不明だった。
「……つなよしです」
「とろくさいな」
その男は一声傲慢に言うと、首を横に倒してみせた。そうしていると、小さな子供が体だけ大きくなったように見える。
「奈々の息子なんだってね」
母の客だというのはすぐに合点がいった。それにしても、母の知り合いに会うのは久しぶりで綱吉はしばしその人に見とれてしまった。
呆けていると、いつの間にか客人は睨むように綱吉をみている。
「あ、えっと、そうです……ごめんなさい」
「まぁいい、いくよ」
「え、あの、いくってどこへ」
「バカも大概にしなよ。うちだよ」
「お宅へ?どうしてですか」
「君、奈々の息子なんだろ?だったら僕の息子だ」
「は?」
「君は僕の息子に違いない」
ノーベル賞でももらったのか、彼は誇らしげに胸を張った。
「ちょ、ちょっと待ってください」
男の勢いに飲まれないよう綱吉は上体をのけぞらせて首を降った。
「俺、父親は分からないんです」
「僕だよ」
「だから」
「僕の他に誰がいるっていうのさ」
たくさんいるとも。
綱吉はほとほと困って声をつまらせた。言葉が通じないことは、中学の先生で嫌と言うほど経験したが、ここまでなのは初めてだ。
綱吉は喧嘩が得意じゃない。こういうふうに衝突すればいつも黙りこんでしまう。
客人は口を閉じてしまった綱吉に焦れて大股で近づいてくると、腕を取り上げてレジから引きずり出そうとした。
「つべこべと、本当にバカな子だな」
「やめてください!」
そのとき店の入り口から壁までを貫くような一喝が通った。
「なにしてやがる!!」
シワだらけの顔に更にシワを寄せて勇ましく立つ、いつも一言多いあのおじいさんだった。
「出ていけ、俺は予約してんだ、俺が先だ」
まだ何か言おうとする男より先に、おじいさんは早口に捲し立てた。
「しつけのなってねぇ若造だな。俺は機嫌がわるい。着物にゲロはかれたくなきゃ出てけ!」
するとあれだけしつこかった男は綱吉から手を離してまた来るとだけ言い残して帰っていった。逃げていったようにもみえる。
「……ゲロ吐くなら機嫌じゃなくて気分が悪いんじゃないかなぁ」
綱吉のまのぬけた第一声に、おじいさんはため息をはいてレジのなかに入ってきた。綱吉が座っていた椅子を引き寄せて自分で座ると、背もたれにもたれかかる。
「なんで俺が入ってきたのに気づかねぇんだ」
そういえば初めてドアが開く鈴の音が聞こえなかった。
いつもは気づくと怒るのに、今日は逆だ。
「そしたら外に助け呼びにいけたのに、てめぇときたら」
「十分助かった」
「バカ言え、俺が怖かっただろうが」
「………そうなの?」
それにしては威風堂々としていた。
「くそガキの相手するのはいつだって怖いさ。誰なんだあいつは」
「父親」
途端おじいさんは顔をしかめたから、付け足す。
「らしい」
「どっちだよ」
「たぶん違うんじゃないかなぁ」
「てめーややこしい奴だな」
「でも向こうは連れて帰りたいみたい」
自分でもこんな面倒に今ごろになって巻き込まれるとは思ってなかった。
おじいさんのようにどっかりと綱吉も腰を下ろしてしまいたい気分だった。
「綱吉、腹ぁくくれ」
なにしてやがる、と怒鳴りこんだ時と同じ、底からでた力強い声だった。綱吉が鈴に気づいても、この人はやっぱり綱吉を助けに入ったんじゃないだろうか。
「お前の父親には『いいえ』って言うのも『はい』って言うのも難儀するぞ」
「おじいさん俺の名前知ってたんだね」
おじいさんはまた顔をしかめた。素っ気ないふりをしていたのがバレて、しくじりを舌打ちでもしそうだ。
「俺も知りたい」
「知らんでいい」
おじいさんはそのままむっつりと口を閉じてしまった。