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懲りないわたしたち

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1. 小鳩



 からん、ぽろん、ごとん。それぞれコインを投入した音、押したボタンの電子音、そしてアルミ缶が取り出し口に落ちた音。
「暑い……」
 呟きながら腰を屈め、冷たい塊を拾い上げてプルタブを開ける。炭酸の抜けるさわやかな音を最後に聞き届けてから、小鳩は缶に口をつけた。
 いつものペプツの味と泡の感触が喉を通っていくと、気持ちがそれだけでも落ち着いてしまう。とはいえ、いくら好物でも炭酸飲料は炭酸飲料、一気には飲めずに、一旦唇から離した缶があたたまらないうちに、と頬にあてながら、校舎の庇の下から青い空を覗き見上げた。遠くには綿のような形をした、けれど雲よりも白くて重そうな入道雲が水平線を縁取っている。
 落ち着いたついでにひとつ、軽いため息が零れると、思いがけず愚痴もつられて一緒に飛び出した。
「あんちゃんに会いたい……」
 小鳩の兄かつ保護者である小鷹は現在、羽瀬川家を空けている。正確に言えば、日本の土を踏んですらいない。
今年の夏休み、兄は大学受験の天王山を迎える小鳩のために出来るだけ時間を割くと約束してくれていた。結局高校で最高学年になるまで中の下の成績を引きずってきてしまった妹が半ば自発的に額に汗して必死に遅れを取り戻そうとしている姿にいたく感銘を受けたらしい、お前も大きくなったんだなあ、とそれこそ最後に頭を撫でてくれたときよりもよほど大きくなった手で髪をくしゃくしゃにされた小鳩は心からうっとりした。同時に一夏分のやる気を得られたとも思った。
 なのに、7月の最後の日に現れた父は一言だけで兄を小鳩から奪い去ってしまったのである。
 曰く、
「小鷹、お前は俺の最高の助手だ!」
 なんの仕事をしているのかもよくわからないのに、助手が必要だなんて!そもそもいままで家には帰ってもほとんど泊まることもなかったくせに、突然兄を小鳩から奪って行くなんて――。
 勿論小鳩とて道理は分かっていた。一年の364日は家を明けていても父はひとりで兄妹の日常を支えているし、兄を束縛する権限は小鳩にはない(父にもない、とも小鳩は思うのだけれど)。だから小鳩はこの夏の猛暑もあいまってほんのすこし気落ちしているのだった。
 もう一口炭酸を含む。思いついてよりかかった自動販売機は夕陽に照らされたせいか予想に反して熱く、慌てて身体を離した。と、その拍子にバランスを崩してよろける小鳩の耳に、甲高い叫び声が飛び込んだ。
「レイシス・ヴィ・フェリシティ・すめらぎぃいい!」
「うひゃあ?!」
「こーこで会ったが百年めー!!!」
 声に遅れて、シスター服を身につけた少女が銀髪を揺らして駆け寄った。そのまま小鳩の肩を掴んで缶が揺れるのも構わずに揺さぶる。
「今日こそ決着をっ」
 すると、せっかく一度は支えた身体が司令塔の揺れによって再びふらつきはじめた。
「や、やめ……」
「あれ?おまえ、どうかしたのか?」
 たまらず小さな悲鳴を上げたことでようやく揺らす動きは止まったものの、肩を掴む手は固定されたまま離れない。水色の大きな瞳が小鳩を覗き込み、わざとらしい仕草で首を傾げた高山マリアは、
「十字架はもう克服したんじゃ?」
「そうじゃなくて!」
「えー、効くのならもっと本格的なのを手に入れておけば……」
「だから、そうじゃなくて」
「ふっふっふ、隠そうとしても無駄なのだ吸血鬼!」
 こちらの話をまったく聞かずに顔を輝かせているマリアを前にしてなにかを言おうとするも、うまく言葉に出来ずに唇を噛んだ。
 言葉に出来ない、出来たとしても相手に伝わらない。自分で自分を隠すためにレイシスの人格を作っていたころは、けれど隣人部の彼女らが兄と共に小鳩の意を汲んでいたぶん自由があった。やがてどうしてもレイシスではいられなくなった小鳩は、いつのまにか兄以外の前では自分を外に出すことが出来なくなってしまっていた。
 閉じこもった心と同時に言葉少なになった彼女はカラーコンタクトをつけることも、普段着にフリルのついた洋服を着ることも、服と同じくらい装飾過多だった台詞を吐くこともなくなったのに、周りは何故か神秘的だのなんだのと言って勝手にますます囃し立てたわりに遠巻きから見守るだけになったからら、干渉が少なくなったのはありがたかったが、ただそれだけだった。もとよりクラスメイトも友人も小鳩には必要がない。
 しかしいま、なにもかもを分かってくれるはずの兄は小鳩の側にいない。
(あんちゃんが、いない)
 平気だから、と言って見送ったのに。
 気がつくと小鳩は地面に手をついていた。手許に残されたアルミ缶の冷たさだけが唯一彼女の身体を引き止めて、耳の奥で続くひとつの音がすべてから隔てている。
 目を瞑って、膝を抱えて、叫ぶ声には聞こえないふりをしなければひとりきりの留守番はやりすごせない。
 自分自身すら少しずつ消えて行く感触を小鳩は安堵と共に受け入れた。同時に苦しい胸の内で暴れる感情もなにも、すべて消えて行って――。
 ぐうう、とひときわ大きな音があたりに響いた。
「……?!」
 庇の下の空気の暑さ、どこかから聞こえる蝉の音、抱えた膝のぬるい温度、落とした缶が転がり落ち視界の端で地面が濡れていく様、砂埃の乾いたにおい、庇の下にまで容赦なく差し込む夏の光。
「あは、あっはははははは!!!」
 一気に小鳩を襲った五感を打ち破ったのは、またしてもマリアの哄笑だった。
「ぐぅ~って、いまぐぅ~って!!」
「うる、うるしゃい!!」
「あははははー」
 顔を赤くして、下を向いたまま叫ぶ小鳩には目もくれずに、しばらく腹を抱えて笑っていたマリアが転がった缶を拾い上げてゴミ箱に投げ込んだ。そして小鳩のすぐ前でシスター服のスカートが変に巻き込まれるのも気にせずに屈み、
「なんだ、おまえお腹が減ってるのか、吸血鬼」
「……べつに」
「嘘をつくなー。いまお腹がぐう~って、うぷぷ」
「帰る」
 立ち上がるべくスカートの後ろを片手で抑えると、マリアがもう片方の手をがっしりと掴んだ。
「おい、レイシス!」
「……なに」
 驚くほど薄い色をした瞳の中に、小さな小鳩がふたつ映り込む。
「おまえたち吸血鬼は教会にとっては不倶戴天の敵。けど、助け合いの精神は主も重んじておられる。だからこのあたしの施しを受けられることに感謝せよレイシス!」
 意味がわからない、と、返す言葉は思いついたけれど、何故か口には出来ないまま終わった。
 マリアは沈黙を自分に都合よく同意だと取ったらしい、小鳩の腕を引いてふたりで勢いよく立ち上がり(ただでさえ高かった身長がさらに伸びていることを発見して小鳩は憂鬱を増した)、にやりとむしろ邪悪な笑みを浮かべた。
「さっ、行くぞ」
「行くって、どこに……?」
「おまえの巣に決まってるじゃないか、吸血鬼!」

作品名:懲りないわたしたち 作家名:しもてぃ