君の傍らに赤
しかしあくまで現代に生まれてからこの15年は、現代の感覚の中で育った。
甘くなったし、ある意味腑抜けたという自覚はある。
今生ですら近しい者の喪失を早々に経験してしまった隣の少年に胸が靄つくのを禁じ得なかった。
しかしそんな感情を払しょくさせるようにゴスリと鈍い痛みが腰のあたりを襲った。
どうやら三成が己の学生鞄を軽く振って故意に佐助を攻撃したようである。
何をするんだと顔だけ横を向いて三成の顔を見上げれば、三成はむすっとした表情をしていた。
「貴様が何を考えたか知らんが、私にとって両親の不在などもはや当然の日常だ。その過去の事実にまつわる感情は私の中でとうの昔に処理され風化している。貴様ごとき若輩にあれこれ気遣われるのは不愉快だ」
それに、と三成は続けてフォローというわけではないだろうが、もう一つ事実を付け足した。
「今は私と、もう一人同居人とともに暮らしている。先程の決まりごとも全てそいつが決めた」
三成の機嫌を損ねたわけではないと声音で悟り、佐助はホッとしたように軽く息を吐いた。
それを見咎めた三成は何やら息を吐くのが癖のような奴だと揶揄したが、ほっとけと佐助はぼやき返す。
なんだ、ひとりじゃ、ないんだ。
耳の奥の脳に近い部分で永劫の孤独を泣き叫ぶ悲痛の声が蘇りそうになったが、その記憶の声は胸の裡の安堵にじわりと虚空に帰った。
「そっか。その人、石田サンのこと心配してくれてるんだね。」
じゃあもう、寂しくないね。
その言葉はそっと心中で呟いて、佐助は目を細めた。
そこで、バタバタと妙にうるさい足音が突進してくるのを耳が捉えた。
どうやら幸村がお望みの買い物を済ませて戻ってきたようである。
手には四本の串団子。
その全てが一人の人間の腹に消えるのを想像したのか、チラリと横を盗み見ると小食の三成がウッと吐き気を催して下唇を噛んでいる。
軽い吐き気を押さえ込もうとしている三成から、喜色満面で尻尾を振る犬よろしく駆けてくる幸村に視線を戻し、あんなにはしゃいで転ぶんじゃないかと苦笑した。
しかし次の瞬間ハッと息を呑んで叫んだ。
「旦那! 前ッ!」
視線の先、勢いよく駆ける幸村の前にはランドセルを背負った小さな子供がいた。
交差路の塀の影から現れた子どもは幸村の前を横切ろうとしており、けれども突進してくる幸村の存在には気付いていないのかその歩みは小さくゆっくりだ。
鋭い佐助の声にビクリと条件反射で幸村が立ち止まろうとする。
しかしスピードの出た車がブレーキを踏んでも暫くは止まれないように、猛進していた幸村もぴたりと急停止など出来るはずがなかった。
止まろうという筋肉の動きで加速していた足はもつれたものの、それでも勢いのままに二歩三歩と足が前に出てしまうのは止められない。
ヤバい、ぶつかる! と佐助が青ざめた瞬間、隣の気配がゆらりと動いた。
残像すら残りそうな速さで三成が飛び出し、佐助の髪をぶわっと風が巻き上げた。
全てがまるで一瞬、瞬きを一度するだけの間に起きたことのように思う。
飛び出した三成は瞬きの間に幸村たちとの距離を詰め、素早くその小学生の腕を掴むとグイと引き幸村の前から避難させた。
あまりに強い力で引かれたため、小学生の手から体操着袋が離れ、宙を舞いぼとりとアスファルトに落ちる。
そして幸村はというとやっとのことでたたらを踏み、ぎりぎりで転びそうになったところを留まった。
一連の出来ごとに思わず呆然としてしまったがハッと我にかえる。
鼓動を抑え、胸をなでおろしてから急いで佐助も幸村と三成の方へ走り寄った。
「だ、大丈夫だった!?」
「いいいい石田殿ぉぉかたじけない!! そして無事か、童あぁぁぁ!?」
落ちてしまった体操服袋を拾ってやり、子どもの無事を確認する為慌てて声をかけるも、子どもはよほど驚き恐かったのか、三成に腕を掴まれたまま俯いている。
よく見れば肩も小さく揺れていて、もしや震えて泣いているのではないかと哀れみの感情が胸をかすめた。
幸村もあわあわと謝罪を繰り返しつつ同時にみたらし団子を手にした腕も振り回して、半ばパニックになりながら子どもの様子を窺っていた。
あまりに小さな子供の姿にさしもの三成も同情心をくすぐられたか、珍しくフォローの言葉を投げかる。
「おい、落ち着け」
しかし少々粗暴な三成の慰めもむなしく子どもは下を向いたままだ。
耳を澄ませば小さく息を引き攣らせているような苦しげな音が聞こえた。
一つの不安が浮かび佐助はさらに顔を青褪めさせた。
「まさかこの子、過呼吸……!」
だったら大変だ。
急いでバッと屈みこむようにして子どもの顔を覗き込んだ。
その瞬間、思わずピシリと身体が硬直した。
脳が情報を処理することを拒絶している。
理解できないわけではない。
ただ、理解したくない、現実として受け入れたくないと意識も無意識も同時に叫んでいる。
しかし時は無情にも止まることはない。
固まったまま動けない佐助の頭上から妙に落ち着いた、いや、呆れと不機嫌が混ざったような三成の声が降ってきた。
「だから、貴様ら落ち着けと言っている」
一拍置いて軽い舌打ちの音、そして三成は捉えていた子どもの細い腕を放るように離しながら、言った。
「……貴様もいつまで笑っているつもりだ、刑部!」
思わず短く息を吸い込んだ佐助の視線の先で、小さな唇がニタリと弧を描いた。
「ヒヒッ……猪が人里に下りて来やったかと思うたが、やれ、人喰い虎とは危ないアブナイ」
幼く瑞々しい筈の声が、引き攣れ、どこか枯れて響く。
不気味な不快さと、沼に嵌まっていくような魅力を伴った声音。
子どもが顔をあげた。
見たこともない子どもの顔。
しかし佐助は知っていた。
その、澱んだ黒の中に浮かぶ白濁の玉の瞳を、遥か昔から、知っていた。
「嘘……だろ、おい……」
目の前の事実を信じたくなくて崩れるように囁く。
だが、それを嘲弄するかのように子どもは、「彼」は嗤った。
「若虎に、それより幼き仔猿か。三成はほんに、鳥獣戯画と戯れるが好きなようよなァ」
おそらく眼前の真実を何も分かっていないのだろう幸村が「ちょうじゅうぎ……?」と不思議そうに復唱しようとしていたが、わざわざその意味を教えてやる気力はない。
旦那、それ、とっくに学校で習ってる筈だよね、だなんてことも言えない。
「彼」のすぐ斜め後ろに立った三成が「彼」の背負うくすんだ赤のランドセルの上に掌をのせた。
もはや聞かずとも理解していたが、それでも怜悧な声は涼やかに決定打を打ち込んでくれた。
「ちょうどいい。猿飛、先程話していた家人はこいつだ。あの話題についてさらに聞きたいなら、面倒だ、あとは全てこいつに聞け」
佐助の中で、三成の新しい家族、優しい心配性な大人の保護者像がガラガラと音をたてて崩壊していくような様を幻視する。
そんな心の裡を見透かしたような皮肉げな丸い眼がヒヒッと歪む。
「ほれ、言うたであろ? 三成には赤がよく似合うゆえ、な」
わざとらしく縦に身体を揺らした「彼」の後ろで赤いランドセルがごそりと中身を動かし、撥ねた。
どんな理由だよ、とぼやきたいのを抑える。
どこか見知った間柄の態度に三成が少し怪訝そうに眉を顰めながら貴様ら既知かと尋ねた。