オーブンの神様
高温で焼けば、パイが割れる可能性があるし、低温でゆっくり焼けば、パイがべちゃっとひっついた状態になってしまう。
なんという矛盾。
さて、どうしたものか。
とりあえず、うんちくばかりこねてもしかたがないので、ピュイ・ダムを焼いてみることにした。
オーブンによってクセもあるから、それも知っておきたかった。
トランシー家の19世紀のオーブン。薪をくべる炉と、パイやパンを焼く釜の部分が分かれているタイプのものだ。直火焼きのものより、温度の調整がしやすい。
とはいえ、やはり細かい温度の調整を薪でやるのはむずかしい。いったん火に勢いがついてしまうと、なかなか鎮まらないからだ。おまけに、焼いているあいだはオーブンを開けることができないから、中のようすが分からない。時間と、パイの焼けるにおいで判断するしかない。
いろいろ手間はかかるけど、私はオーブンで何かを焼くのが好きだ。
薪に火をくべる時のパチパチという音や、少しづつ炉に火がまわって部屋全体が暖まっていく感じ。なにより、パンやパイがが焼けていくときの、だんだんといいにおいがして、焼きあがってく感じが好きだ。
焼いてみて、生地がうまく膨らんだり、割れたり、思ったより大きかったり、小さかったりするときもあるけど、ちゃんと原因がある。今度は絶対うまくやる、と思いながら次にとりかかるのもまた楽しい。
そんな風に、料理の世界にがっぽりはまってると、よくハンナに『いつまでオーブンの神様と話をしているのですか?』とたしなめられる。
オーブンの神様、そんなもの、いるのだろうか。
いるとしたら、それは旦那さまが6歳のクリスマスのときにパイをくれた、そんなささやかな力の持ち主なのだろうか。
オーブンのなかの小さな神様。
そんなことを考えているうちに、パイの生地ができた。これをタルトの形に焼く。そのあいだにクリームを作って、タルト部分が焼きあがったらクリームとジャムをつめる。上にパイ生地をかぶせて焼けば完成だ。
そうそう、今日の旦那さまのおやつも別に作らないと。今作ってるピュイ・ダムは、あくまで試作品だ。
時間がないので手ばやくできて、それなりに見ばえもよくて、旦那さまの好みに合うスイーツは何だろうと、考えをめぐらせていたときだった。
「クロード、何してるの?」
旦那さまが私を呼ぶ。試作はとりあえずおあずけだ。
「おやつの準備をしてました」
「ふ〜ん、なんか楽しそうだね」
「やってみると、意外と楽しいものです。ハンナに言わせると、私は料理人、というより料理名人、だそうです」
「料理名人?、あはは、ふっざけてんなぁ、マジメにやれよ」
でもまぁ、そういうのお前らしいよ。と言いながら、大理石の調理台の上にちょこんとのって、脚をぶらぶらさせている。どうやら、ヒマをもてあましているらしい。
「クロード、おなかすいた」
そらきた。
「準備中です、少々おまちください」
「なんか、いいにおいがする」
旦那さまが鼻をひくひくさせながら、私の顔をのぞき込む。
「ねぇ、おなかすいちゃったよ」
旦那さまが私を手まねきする。呼ばれるままに、私は近づく。
プラチナブロンドの髪をゆらして、旦那さまが上目づかいに私を見つめる。先代のトランシー伯爵が、死ぬまで執着した美しい髪。私が執事になってからは、誰にもさわらせてはいない。
「…もっと、こっちに来て」
返事をしようとしたが、のどの奥で声がからんで、うまく声が出ない。。
旦那さまは動かない。じっと、私を見つめている。
プラチナブロンドの髪は、ひとつの象徴だ。
傲慢な口ぶりとはうらはらに、繊細でおく病な一面をあわせ持つ。表情や憎まれ口でごまかすことのできない繊細なプラチナブロンドの髪こそが、彼の本当の姿そのもののようで、だからこそ、誰にも触れさせたくないのだ。
返事のかわりに、旦那さまのほうへ頬をよせる。まだ何もしていないのに、息が荒い。
旦那さまの潤んだ眼と、私の首にかかったリボンタイを引きよせる長い指。見つめられて何もできない、私を見すかすように誘う。私は引きよせられるまま、ひざまずく。
ひざまづいて、今度は私が旦那さまを見あげる。アイスブルーの瞳が不安げにゆれる。じらすつもりはないのに、いつもタイミングがずれて不安にさせてしまう。不安定にゆれる魂。こらえきれず、私は手をのばす。
私の小さな旦那さま。その小さな体を腕に抱く。さらさらしたプラチナブロンドの髪が、私の頬をなでる。旦那さまの髪から、クリムゾンレッドのバラの香りがする。私が選んだ洗髪料の香り。
「旦那さま…」
耳元でささやくと、一瞬、びくっとして体をこわばらせる。どうしてこの人は、人を誘うようなそぶりを見せて、いっぽうで本気でおびえたりふるえたりするんだろう。
私は旦那さまを、これ以上こわがらせないようにと、そっと右手で背中をなでる。
「…クロード、…」
旦那さまの口から、小さなため息が漏れる。
私は名前を呼ばれただけだ、それも本来は執事として。それなのに、誰にもさわらせたくないと思う。どうしてこの人を支配して手に入れることばかり考えているんだろう?
私は旦那さまを抱く腕に力をこめる。つぶさないように、そっと。
旦那さまが眼をとじて、私の腕の中で小さくうずくまる。つかみきれない、といつも思う。なぜか無性に不安にさせる大きさで。
こっちへ来てと言いながら、ふれられたらおびえて震える、その矛盾をあくまで貪りたくなる。
「旦那さま…」
私が旦那さまのくちびるに頬をよせた、そのときだった。
「…なんか、焦げくさくない?」
私はオーブンのほうをふり返る。釜の部分から、白い煙のようなものがあがってるのが見えた。
「…あーあ」
「申し訳ありません」
こうなってしまっては、言い訳するほうがかえって見苦しい。
「クロードも失敗するんだね」
なんという、おそれ多いお言葉。
私が言葉につまっていると、ひどく楽しそうな旦那さまと眼があった。
「ねぇ、おしおきは何がいい?」
けっきょく、ピュイ・ダムの試作どころではなかった。クリスマス当日まで、もうあまり日がないというのに。
まぁ、いい。いざとなれば当日10個くらい作れば、どれかひとつはきれいに焼きあがるだろう。
そう自分に言いきかせながらも、クリスマス前にせめて一度は、完全な形のピュイ・ダムを作りたかった。オーブンの神様のごきげんをうかがうためにも、あらかじめ作って、オーブンのクセを知っておく必要もあった。
旦那さまは、かたちの残るプレゼントが苦手だ。
かたちだけが残って、気持ちがどこかへ消えてしまうのがいやなのかもしれない。
そんな旦那さまが、めずらしく「クリスマスに食べるならあれがいい」と言った。
だからクリスマスまでには、絶対作れるようにならなければいけない。まぐれや、偶然ではなく。
6歳の、弟のルカとすごしたクリスマス。わずかに幸せな光がまじる過去の記憶。いやなことばかりではなかったのだ、きっと。