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アリス振り回される(前編)

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思い出した。それは随分前に読んだ児童文学のことだろうと思い出す。

「灰色の男たちと戦う女の子・・」

「それだよ。」

主は満足そうに笑い、ゆっくりとカップを口元に運んだ。
アリスは興味深げに男を見る。何者なのだろうか。何故この話題なのだろう。

「お嬢さんが無限に続くと思っているものは、実は幻想かもしれない。それは誰にもわからないことだ。」

「時間?」

「ほほ・・・ 時間も然り。この世界ですらも、泡沫の夢のように無くなるものかも知れない。」

謎掛けの様な話を繰り出す主に、しかしアリスは惹き込まれてゆく。催眠術でもかけるようなゆったりとした声と話し方。頭がぼぅっとする。

「もしもお嬢さんが受け止めきれないくらいに大きな困難に出会ったらどうするかな。あの小さな女の子のように、勇気を持って立ち向かって行けるかい?」

「例えばそれは深い悲しみや苦しみを負う事になってしまうかもしれない。」

その時、悲しげなロリーナの顔が目の前に浮かぶ。何故、母ではなくロリーナなのだろう。アリスの心臓は心拍数を増しながら、えも言われぬ恐怖に支配されてゆく。

「私は 」

「知っていたかい?どんな苦しみも、悲しみも無限じゃない。必ず果てがある。それはお嬢さんが無限に続くと思っていても、実際はずっと小さい物だからね。」

「でも、こんなに苦しくて怖い。」

「何処に居ても乗り越えていくべき事が必ず起きる。目を背けずに進み行けば、何時かは困難は困難では無くなる。それはとても素晴らしい事なのだよ。」

主の言葉と共に、室内の大時計がボーンと低く鳴った。それが合図かのように一斉に時計が鳴りだす。鐘を叩くような音。オルゴール。鳥や動物の鳴き声。様々な種類のベルの音。大時計の音も響く。何度も何度も。まるで世界中の時計が耳元で鳴っているような激しい騒音。ぐちゃぐちゃに混ざり合った音が頭の中に反響する。耳を塞ぎながらアリスは主の方を見る。主は優しく微笑んだ。そうして視界は周囲の景色を巻き込みながら廻り始める。





ブラッドの向かった部屋には先客が居た。長い腕と脚を組んで、眼鏡のレンズ越しに赤い瞳が此方を好戦的に睨みつけている。

「流石ですね。お望みの情報を手に入れるためなら手段を選ばないわけですか。」

「今更なんだ、それはお互い様だろう。それとも情報提供の対価でも欲しいと言いに来たのか、宰相殿。」

ブラッドはペーターの向かいの席に腰を下ろすと、既に臨戦態勢の若き宰相に、余裕の笑みで応える。

「いいえ、情報に対する対価は、既にアリスからいただいていますから。」

ブラッドはほんの僅かに目を細めると、ソファの背もたれに身体を預け脚を組む。表情も声のトーンすら変わってはいないが纏う空気が不穏な気配を放つ。

「ほお、お嬢さんから。私の婚約者からどんな対価を取ったのか非常に興味があるね。是非とも聞かせてくれないか。」

ペーターは口の端を少し上げると鼻先で笑う。

「ふん、僕と彼女の個人的な事を、例え婚約者だとしても教える義理はありませんね。まあ、貴方の場合はアリスの本当の婚約者で有る事自体もかなり怪しいですけどね。」

「ホワイト卿、人の恋情とはなかなかに複雑なものでね。第三者には判らない事の方が大きいのだよ。」

「そうですね。それは否定しませんよ。僕も唯一無二の愛しい人と触れ合っている時だけは、幸せですから。これも愛のなせる業なんでしょうね。」

目には見えない二人の言葉が激しくぶつかり合いながら摩擦を起こし、この部屋の帯電値は上昇の一途を辿る。既にそこかしこに大蛇の舌のような青白い放電が見えるようだ。

「君にもそう言う存在が居るのか。では今後、私のアリスには指一本触れないでいただこうか。せっかく私が薔薇の香りを移しても、君に触れられると獣臭くなってしまうからね。」

「彼女と僕の関係に一々口出ししないでください。それにしても血の臭いをを隠す為に薔薇の香りだなんて、悪趣味もいいとこですね。」

そこでペーターは一度言葉を切ると、声のトーンを落とす。

「一つだけ、教えてください。放埓な貴方が手も触れないということは、本当に彼女を愛しているからですか?」

それは真剣に答えを求めている表情だ。だが、何を考えているのか判らない様な表情でペーターの話を聞き終わると、これまた本心なのか嘘なのか掴ませない様な言葉を吐くブラッド。

「私は愛などというものは信じないし興味も無いが、退屈は死ぬほど嫌いでね。その点アリスは側に居るだけで私を楽しませてくれるからね。今後も側に置きたいと思っている。それだけだ。」

「帽子屋、それが本心なら僕は貴方を見損ないましたよ。己の欲の為にアリスを利用するなんて、同じ男として到底許すことは出来ない。彼女が選んだ男でなければ即刻殺していますよ、ブラッド=デュプレ。どんな手を使ってでもね。」

「ははは・・・何を言い出すのかと思えば、君らしくも無い青臭いことを。私の生業をご存知だろう? 私に何を期待していたのかは知らないが、他人に期待するなど君らしくも無いことだな。」

ペーターの手は既に懐中時計に、ブラッドは右手に持つ杖の意匠の部分を左の手の平に打ちつけながら、お互い間合いを計っているようだ。

「アリスは渡しません。絶対に。」

「くだらないな。」




鳴り止まぬ騒音の中で、アリスは主の名前を叫ぶと手を伸ばした。まるで助けを求めるように。既に原形を留めなくなった主と室内の景色。そうしてアリスもその渦に巻き込まれて行く。果ての無い奈落の底に回りながら落ちてゆく。アリスの伸ばした助けを求める手を掴む者はいない。

(お嬢さん、貴女が望まなければこの世界は開かれなかった。ここで本当の自分の答えを見つけなさい。)

頭の中で声が響き、時計の音が消えた。伸ばした手をしっかりと掴む存在に朦朧とした意識の中で気付く。

「アリス」
「ブラッド! 怖かった。今の何?」

思わず男に縋り付く。辺りを見回すと、玄関の階上に向かう階段に座り込んでいる。左手に見えるはずの客間が、壁に変わっていた。

「眠っていたのか?」
「私、此処の主と話している途中で・・」

「お嬢さん、ナイトメアにやられたな。」

「え?」

それ以上は何も言わず、アリスを抱き上げると建物を出て敷地外まで運んでくれる。

「あの、紅茶の話は?」
「ああ、最悪だな。お嬢さん、さてどうしてくれようか。」

やはり思ったとおりのようだ。紙切れを渡した時のペーターの様子からは考えられなかったが、今更責める気も起きない。




「僕は間違っていたのでしょうか。彼女を助けたいと思ったことも。愛したことも。エゴを押し付けただけなのか・・」

振り返るペーターの視線の先には、誰も居ない。
ただ、来客を迎える為の座り心地の良さそうなソファと、コーヒーテーブルの上にカップが2つあるだけだった。



☆ 4.アリス窮地に立つ


「帰りましょうってば・・」

遠慮がちに小さな声でブラッドに話しかけるが、無視される。