ミゼレレ
2.
私は答えを持たぬまま、聖域に再び、足を踏み入れた。インドに居座ることも考えなくもなかったが、白濁した気持ちのまま、無為に過ごすことは己の性分が許さなかった。それにもう一度、サガにちゃんと確かめたいと思う気持ちもあった。そして私はサガがいるであろう場所へと足を運んだのだが―――。
「......サガはどうしたのかね?ムウ」
いつもの定位置にはサガの姿はなく、代わってムウが忙しく、分厚い書類の束にペンを走らせていたのだった。
「おや、シャカじゃないですか。ようやくのお戻りですか?どうせなら一週間前に戻ってきて欲しかったものです。そうしたら、あなたにこの役を押し付けてやったのに」
眉間あたりに皺を寄せ、軽く口端だけを上げて答えたムウに「面倒ごとはいらぬ」と言い返す。不満そうな顔をして口を開きかけたムウの先手を取り、もう一度サガの居場所を訊くと、ようやくムウは諦めて答えた。
「―――彼と懇意だったらしい方の訃報が届きましてね。それで弔問に。いい機会だからとアテナ直々にそのまま休暇を取るようとの“勅命”を受けてね......最低でも二週間は聖域に戻ってくるなと言われているはずですから、どこかその周辺でフラフラしてるんじゃないですか?」
そして私はこの有様です、と山と積まれた書類を指しながら、ムウは付け加えた。
「勅命で休暇とは初めて聞いた」
半ば呆れながらそう呟くと、ムウもまた同様にペンを玩びながら、深い溜息を吐き出した。
「私もですけれど。まぁ、そうでも言わないと......あの男のことです。すぐに戻ってきて仕事の虫になるのを見越してのお言葉なのでしょう。どうも加減というものを知らない男ですからね。ま、あなたもそれは別の意味で同じでしょうけど」
「どういう意味かね?」
さぁ?とムウは誤魔化し、仕事の邪魔をするならば手伝ってください!と鼻息を荒くしたため、「私はサガの休暇の手伝いをしてくる」と突っぱねた。厄介事を片付けながら、ムウ独特の言葉遊びに付き合わされるのは私の本意ではない。
「どんな手伝いですか!?」と叫ぶムウを無視しながら、その場から早々に退散する。教皇宮で忙しく走り回るひとりを捕まえて、サガが向かった場所を聞き出した私はとりあえず、そこへ向かうことに決めた。何の考えもなかったけれども。
「―――君は一体......なにをしているのかね?」
「おや、シャカか?どうしたんだ、こんなところまでおまえが来るなんて」
先に質問をしたのは私だ、と目の前で引越し作業でもしているのかと思わせるほど、手狭な広間でダンボールの山に埋もれていたサガの手を止めさせた。
小さな古びた家の中でサガはシャツの袖を捲り上げて、まるでこの家の主のように荷物を纏めていたのだ。不意に訪問した私をサガは驚いているようにも見えたが、いつものように柔らかな笑みを浮かべながら私を迎え入れた。
「故人の遺志でな......遺品の中で使えそうなものは教会などに寄付して欲しいという。それで色々と整理しているんだ」
鈍く光る銀の皿をサッとタオルで拭いて、重ね合わせたあと丁寧にサガは梱包した。ひとつひとつ、とても丁寧でありながら無駄のない動き。じつに手際良く、その作業をサガは繰り返していた。
「なるほど。でも、なぜ君がそれをする必要があるのかね?」
さして価値もなさそうな絵画のひとつに私は目を向けたあと、近くにあった写真を手に取った。仲睦まじく肩を寄せ合い、微笑みを向ける一組の老夫婦の姿がそこにあった。サガは立ち上がり、私のほうへと歩み寄った。覗き込むように写真を見つめ、埃で汚れた少し黒いサガの指が皺に目を埋もらしていた老人をさした。
「彼には身内と呼べるものがいなかった。それに彼は......」
言葉尻を濁し、サガは表情を曇らせた。そして私の手から写真をするりと抜き取り、丁寧に床に並ぶ箱の中の1つへと仕舞った。サガは哀しみと遣る瀬無さを瞳に宿しながらも、深い慈悲すら感じさせる表情を一瞬だけ浮かべると、私を振り返った。
「まだ、二階にも遺品が残っているのだが、少し手伝ってくれるか?」
「それはかまわないが」
「助かる」
毀れるような笑みを向けたサガに促され、狭い階段を上っていく。その途中の壁にはいくつか写真が飾られていた。老夫婦たちの若かりし頃の姿なのだろう。そして中には子供の姿もあったが、その子供の姿は幾枚かあっただけだった。その理由を推測しながら、私は案内された部屋に入った。