ミゼレレ
5.
「――そろそろ、満足したか?」
疲れたようなサガの声に「いいや、まだ北半球さえ網羅していない」そう力強く言い切り、振り返ると頭を抱えて蹲っているサガがいた。
「大丈夫かね?」
「ああ......あとどれだけの数があるのか考えて......眩暈がしただけだ。確か私の休暇に付き合うとかおまえが言っていたような気がしたけれども―――」
これでは荒行だ、とサガはぼやいていた。きっと私の魂胆などわかってはいないのだろう。火照っていた体もすっかり冷めたことを確認し、安心した私は慈悲深くサガに答えてやった。
「ふん。もう根を上げるのかね?しかたがない。少し休むかね?」
頃合いのベンチを見つけて、サガとともに座る。ほっとしたような表情を浮かべたサガは腰を下ろすと深呼吸をした。
サガの口元から吐き出された息は白かったが、すぐに目に見えぬものとなった。人影もまばらな公園は黄や赤といった落ち葉によって絶妙な色彩を見せていた。抜けるような青い空と色づく大地のコントラストが美しいものだと私は思うが、サガがどのように感じているかなどわからなかった。
同じ歌を聴いても、同じものを見ても、同じことを体感したとしても―――きっと私とサガとでは捉え方もその感動の深さも違うのだろう。
「シャカ、おまえは本当に教会廻りだけで時間を費やすつもりなのか?」
窺うようにサガが尋ねてきた。理由もわからぬまま私に引っ張り回されて、さぞかし迷惑・困惑しているであろう彼はそれでも笑みを絶やさない。じつに律儀な男だ。
「当然だ」
一瞬、サガの口端が引き攣ったように見えて、少し愉快な気分になった私はポンと軽くサガの肩に手を置いた。
「......と言いたいところだが。君はお疲れの様子だな?もし、君に希望があるならば今度こそ付き合ってやってもいいが?」
なければ続行だといわんばかりに言い放つと、サガは焦ったように思考を回転させ始めた。こんなちっぽけなことを必死になって考えているさまはある意味、滑稽かもしれない。そして、そんなサガを少し......哀しいと思う。彼が欲しているものがただのひとつだけであって欲しくはない。それが叶えられぬものならば、なおのこと。
「さて。答えは出たかね?サガ」
ウンウン唸り声さえ聞こえてきそうなほど考え込んでいたサガは「ちょっと待て」と手で示していたが、ようやく答えが見つかったらしい。ぱっと明るい顔で私を見た。
「どこでも良いのか?」
「ああ」
「それでは......」とサガが意気揚々と語った答えに、今度は私が渋い顔をする羽目になろうとは。まったく、サガという男は侮れない。
「―――何もないところだが」
「かまわんさ。しかし、驚いた。おまえが本当に拝ませているとは」
揶揄めいたサガの言い草に少々不快さを感じながら、「拝ませているわけではない!」と小声で反論しつつ、逃げるようにそそくさとサガを引き連れて寺院の中へと入った。
私が活動の拠点としている場所を一度見てみたいというサガのリクエストを受けての結果だ。
正直、聖域に縁ある者をこの場には一人たりとも連れてきたくはなかった。この場は私にとって「特別な場所」であり、そして、この場所において私は「特別な存在」であったから。
聖域では優劣つけがたい個性的な仲間がいる。そして私も十二宮を守護する聖闘士の一人に過ぎず、アテナがいるあの場において至高の存在である必要もなかった。ある意味、聖域という場所は私にとって『自由』な場所ともいえた。だが、ここでは―――。
「ふぅ......」
私だけが入ることを許されている奥の一室に飛び込む。だが、慌てる私に反して夢現に扉の装飾に目を奪われ、立ち尽くしているサガの腕を引っ張り、中へと引き摺り込んだ。
勢いよく扉を閉めると私はそのまま背凭れ、思わず溜息さえこぼれ出た。そんな私をサガはさも楽しげに見ていた。
「これで満足かね?」
それこそ苦虫を噛み潰した思いでサガを見ると、「たった今、着いたところだろうが」と彼は笑うばかりだ。彼をあちこちの場所へ連れ回したことに対する意趣返しのつもりなのだろうか?そう尋ねようとしたが、サガは部屋中を興味深げに見て回っては私を質問攻めにした。
私にしてみれば他愛ないものでもサガにすれば宝の山に見えたのだろうか。普段では絶対にみられない少年のような無邪気さで声を弾ませ、サガは瞳を輝かせていた。意外なサガの一面を垣間見たことで、サガへの興味がより深いものとなる。
「面白いかね?」
壁に描かれた曼荼羅を凝視しているサガに声をかけながら、床敷きのカーペットに腰を落ち着かせると、そのまま姿勢を崩し、肘をつくような形で横向きに体を休めた。焚き染められた香のかおりのする金や銀の糸で鮮やかな刺繍を施されたクッションを引き寄せる。
「芸術の極みだな......素晴らしい」
曼荼羅から視線を私に向けたサガはどこか夢見心地でそう感想を述べてみせた。曼荼羅のことを言ったのだと思った私は「真理の極みだ」とすぐさま訂正する。少しサガは妙な顔をしたが、「え?ああ......壁の絵のことか」と曼荼羅を振り返ると一人で納得した様子で目を細めた。
「それは失礼した。おシャカ様?」
軽口を叩くサガに顔が思わず引き攣らせたが、それ以上に違和感を覚えずにはいられなかった。彼が今なにかを隠したような気がしたのだ。それに私はなにかを間違えたのかもしれない。また私はなんの手立てもないままにサガの心が隠されていくのを黙って指を咥えるしかないのか。
腹の底が冷えていくような不快感に眉を顰めた。
「すまない......気を悪くさせたか?ふざけ過ぎたな、私は」
押し黙ってしまった私を不機嫌になったのだと思ったのか、サガは慌てて横たわる私の傍に寄り、膝をついた。そんなサガを見上げるようにして私は彼の双眸を見つめた。真正面に見据え、そっと彼だけに届くような吐息のように囁く。それがサガにどれだけの効力があるかは未知数だった。