アリス振り回される(後編)
冷たいこの声はペーター。その横をすり抜けようとして引き止められる。振り返ると視線が合った。正装のホワイトタイが嫌味なほど似合っている。
「階段、エスコートいたしましょうか?」
その声を無視して一人で階段を下りる。人込みの中、見覚えのある子供達。此方をじっと見ている。気付かれた? 恐怖を感じながらも脇を通り過ぎる。ホッとしたのもつかの間、いきなり後ろから腕を掴まれる。息が止まりそうになる。腕を引っ張られ身体の向きを変えられた。金の髪飾りが激しく揺れている。
「なぁ、俺と踊ってくれないか?」
エリオット! スーツ姿は初めて見る。腕を振り解こうとするが、しつこくダンスの相手を要求される。こういう事は想定していなかった。どうする。・・・ビバルディなら、どうする?
アリスはエリオットを見上げる。彼も真剣な顔で此方を見ている。その胸元に真っ赤なネイルの指先で持った赤い羽根飾りの付いた扇子を突きつける。突きつけた扇子よりも血の色に近い唇の端を吊り上げると、そのままぐいと扇子に力を入れて押す。ぐいぐい押し続けた後で、腕を掴む手に激しく扇子を打ちつけた。エリオットの手が離れ、アリスは踵を返すと行かなければいけない道に向かう。視界の端に見覚えのある派手な帽子が映る。彼も来ている。見つからないうちにビバルディとの約束の場所に着かなければ。
庭園では特に障害も無く進めた。途中で、勤務中なのか休憩中なのか不明な騎士と擦れ違う。ヒューと口笛を吹いて冒険へのお誘いをいただいたが、軽く無視した。そうして、秘密の通路の入り口へ。此処からは初めてだけれど、今までよりも障害はずっと少ない。
いつまで続くのかと思うほどに長い道。その先に行く手を阻むように緑色の壁のような物が見えてきた。近づけば、城の前庭と似ている薔薇の垣根だった。垣根に沿って少し歩くと急に視界が開ける。
(これは・・全部薔薇?)
夜の闇の中、むせ返る様な薔薇の香りに包まれる。暫く辺りの様子を窺うが、アリス以外に動く影も無く安心する。それでもビバルディが言っていた、此処で何があっても誰を見ても声を出すな。とはどういう意味なのだろう。このひっそりとした薔薇園はビバルディだけの物ではないのか。事前に聞いていた椅子とテーブルの場所がよくわからない。適当に薔薇を見ながら歩いていると、視界の隅に動く黒い影が見えた。緊張する。此方は動きを止めて黒い影の様子を観察する。
ぼんやりとした影は、はっきりとした輪郭を持たず、凝視しているうちに怖くなってきた。それでも影の動きを目で追う。何度も何度も薔薇園全体を行ったり来たり、いったいあの薄気味悪い物の正体は何なのだろうかと思う。
影が居なくなっても暫くはじっとしていた。まだその辺りに居るような気がして怖かったからだ。
長い時間立ったままで、慣れないハイヒールを履いていたせいか足の指先が痺れる。何処か座れるところをと探しているところで地面のちょっとした隆起にヒールが引っ掛かる。手を伸ばした先で薔薇を思わず掴む。
「痛っ!」
反射的に声が出る。気付いて唇に手を当てたが遅かった。マスケラは地に落ち、拾って顔に付けても二度とアリスの顔を隠してはくれなかった。これが取れてしまうと何がどう違ってくるのだろうか。此処は自分以外誰も居ない。もう顔を隠す必要も無いのではないか。それでもビバルディの『アリスを隠す魔法』という言葉が気になって仕方ない。舞踏会では皆に見えていた。隠すとはどういう意味なのだろうか。
「ビバルディ?」
人の気配に振り返ったアリスは凍りついた。夜の薔薇を浮かび上がらせるライトが、一番会いたくない男の顔を照らす。慌てて後ろを振り返りながら逃げ始めるが、アリス本人ですら逃げ切れるとは思っていない。慣れないドレスの裾を捌きながらハイヒールで繰り出す一歩が、ブラッドの歩幅に敵うわけが無いからだ。あっという間に追いつかれて乱暴に腕を掴まれ引き戻される。
「放して!」
一言を放つのがやっとだった。もう片方の手が顎を掴むと、指を頬に食い込ませてくる。そのまま強引に唇を塞がれて、アリスの悲鳴はブラッドに飲み込まれた。激しく抵抗してみても腕の筋肉が疲労するばかりで、アリスは絶望に近いものを感じる。せめてドレスで無ければもう少し抵抗できたか、或いは夜の闇に紛れ逃げ切れたかもしれない。
ブラッドは今までこんな風に自分を乱暴に扱ったことは無い。いつも大人の余裕で、アリスを手の平で転がし面白がっているところがあって、アリスもそうと気付きながらほど良い距離を保っていたつもりだ。否、それは勘違いだった。距離を保っていたのはブラッドの方だ。何時だってルールはこの男が決めてきた。詰めようと思えば何時でも一瞬で詰められるアリスとの距離。
「お嬢さん時間が無いんだ。失礼するよ。」
そう言うと細い身体は軽々と肩に抱え上げられて、まるで荷物のように運ばれる。両脚はドレスの上から拘束され自由が利かない。両手で男の背中を手当たり次第叩きながら声を張り上げて抗議するが、全く相手にもされず、いつの間にか周囲の景色は薔薇園では無くなり、見覚えのある帽子屋の庭が広がっていた。かなり屋敷に近い筈だ。
アリスは少し前から身体に違和感を感じている。痺れる様な両手の感覚が指先からきており、徐々に腕の力も入り難くなっている。このまま身体中が痺れ、呼吸すら止まってしまうのではないかという恐怖。泣き声のような問い掛けにも男は応えない。
「ねえ、私に何かしたでしょう?ねえ!」
ブラッドの靴音が、硬い石の上を歩く高い音に変わる。何処かの部屋のテラスへの階段を上がっているようだ。もう逃げられない。一瞬意識が途切れた。抗い難い睡魔が押し寄せる。どうにか気力で目を開ける。柔らかい物の上に横たえられる感覚はあったが、腕も脚もそのままズブズブと沼にでも沈み込んでいく様にとてつもなく重く感じた。時々身体を無理に引っ張られているのはドレスを脱がされているのかもしれないと、アリスは薄れ行く意識の中で思った。
ベッドのスプリングが軋んで、その僅かな揺れに薄っすらと意識が戻る。視界がぼんやりとしているが、室内の暗さから何となく夕方なのだと思う。腕も脚も重くて動かせない。まるで力が入らず、寝返りをしたいと思っても身体が動かない。そのうちに目蓋が重くなり、また眠りに落ちた。
次に目が覚めたのは夜だった。真っ暗な室内。どのくらい眠っていたのだろうか。まだ身体が重い。それでも肘や脚を曲げる角度をゆっくりと変えるくらいは可能になっていた。長い間眠っていた気がするのに、どうしてこんなに身体が重くて、頭も靄がかかった様にはっきりしないのだろうか。
「目が覚めたのか?」
直ぐ後ろから声がした。反射的に逃げようとする身体は、意に反して動かない。ならば出来る事は一つ。眠った振りだ。
アリスは右肩を下にして寝ている。その身体を後ろから抱き込んでいたらしいブラッドは、身体を起こし此方の顔を覗き込んでくる。アリスは目を閉じ、目覚めている事を悟られないようにゆっくりと呼吸をする。その唇にそっと指が触れてくる。それからアリスの顔に熱い息がかかると唇にキスをされた。
作品名:アリス振り回される(後編) 作家名:沙羅紅月