きみのそのあの
ソウルはぽかんとした顔でこちらを見ている。それもそうか、自分でもさっきと話が全く繋がっていないことが分かるんだから。顔を背けてソファーに座る。ほっとする。距離はまだある。手をぶらぶら振って、話が終わったこととここから離れろということをアピール。どうせ話半分にしか聞いていないことは分かってる。ビクビクしてるくらいならさっさと安全な台所にでも戻るといい。私も自分の部屋に戻る。あそこが一番、ましな場所だから。
ぐいっと手が引っ張られる。その方向に顔を向けると、ビビって台所に逃げたはずのソウルが、私の腕を掴んでいた。相手の口が開きそうになる。落ち着けと思っていた私の頭が一瞬で沸騰する。
「触んなって言ってんだろッ!!」
目の前が真っ暗になる。さっき押さえて、帰ってくる前にも押さえたはずのあの暴力が、どうしてかよみがえっている。帰ってきてしまっている。私に魂を取らせるあの衝動。標的はこの鎌。さっきまで楽しそうにしてた癖に、もう我慢が効かないの?
ウン、ワタシ、ヒトヲナグルノダイスキダカラ!
違う、違う違う違う違う違うッ!!
腕を振り払った時にソウルの体は私から離れていたが、構わないで立ち上がった。ふらつく武器へ大股に近寄って、昼間と同じ場所を叩く。顔を平手打ち。ぱん、と頼りない音がするけどそれでソウルは床に倒れる。少し顔をしかめているがまだ気が戻らないのか起き上がる様子もないし顔をかばうこともしない。怒鳴り返すことも殴り返すこともせず殴られたまま。ぎりぎりと歯を噛む。手が熱いけど背中が冷えていた。体のどこかが酷く寒い。
うう、とソウルが少し唸る。私はしゃがんで襟元を掴み上半身を持ち上げた。黒い何かはまだ収まらないで私の中で渦巻いている。言葉にならない。イライラ。はあっと息を吸い込んでもう一度手を振るう。ヒュンと風を切る音。
パァンッ!
疑問符。私が殴った音じゃない。自分の頬が叩かれた音だ。ソウルの首本から手が離れてソファーまで吹っ飛んだ。痛みがまだ来ない。衝撃の方が強い。暴力の衝動が嘘みたいに消えていく。
「やめなさい」
マカを平手で一メートルほどぶっ飛ばしたのはもちろん俺じゃない、いつの間にか帰っていたブレアだ。俺もマカも、玄関が開いた音にさえ気付かなかったようだ。とんだお笑い草である。
ブレアは笑みを消して凍り付いたように目を丸くしていた。じっとマカを睨んでいる。ソファー付近で倒れているマカは起き上がる気配もないが、気絶しているわけでもないらしい。足が動いて、胸の前で抱えられる。ブレアはマカとは違って追い討ちをかけようとはしない。倒れたままの俺の横で、もう一回冷たい声を出す。そういえばここに来て初めてだ。ブレアがマカに対して見下した声音で喋るのも、顔を殴るのも。
「いつでも誰かが止めてくれると思ったら大間違いだよマカ。次はないよ」
言い切って、ぐるんと目が俺を向く。腕を伸ばされた。掴まれということらしい。のろのろ手を出すと、ぐいっと上まで引っ張り上げられた。強引に立たされて、耳元に囁かれる。
「今すぐ部屋に戻って」
頷く。あらゆる意味で、今このリビングにいられる人間など存在しない。それは俺だけじゃなくて、ブレアにも同じだ。囁いてすぐ、躊躇いもなく玄関に舞い戻り、今度はきちんと音を立てて出ていった。俺はぐずぐず歩き出す。リビングの床にうずくまったままのマカが目に入るが、吐き気がするくらい嫌な光景だった。やりかけの夕食準備はもはや仕方がない。どうせ、誰も食事なんてとらない。
部屋に戻って鍵をかけて布団をかぶる。あそこでマカは泣くかもしれない。そんなの聞きたくなかった。駄目なんだ。俺の中にあるよく分からない職人崇拝。例えどんな性格や理由であろうとも、職人がみっともなく人前で(武器の前で!)泣くなんて許せない。やって欲しくない。耳を塞いだり目を閉じたりは簡単だけどそんなことすらやりたくないんだ。何故なら俺は武器で、マカは職人だからだ。他に理由はいるだろうか?
さっきもしつこく手を握ろうとした。そうしたらマカがぶん殴ってきた。俺は殴られっ放しで何にも反抗しなかった。呆気に取られていたのもあるし納得していたのもある。今なら何となく理由が分かる。俺がマカの手を握ろうとしたのもそれをマカが拒否したのも。
要するに怖いのだ。俺は怖いから手を握ろうとする。武器にならなくては戦えないし職人だって痛い目を見る。それは避けたいし嫌なことだ。手を取って武器化するだけで、俺はその恐怖から解放される。けどそんなのは職人だって同じことだ。俺が手を握るから酷い目に遭う。大体は予想できる。手を握ろうとするその行為が自分の未来を確定する。だから振り払う。その未来を避けようとして。
こんなのはお互いに都合のいい解釈を並べただけだ。綺麗に収まる単語を見付けたから乗っただけ。実際に何が原因なのかは分からないし、知りたいとも思えない。あの奇妙な潔癖がいけないのかもしれないし、何の理由もないかもしれない。とにかく、今まで考えようともしていなかったということは、どうでもいいことなんだろう。ならこれ以上無駄な推論はいらない。ぐるぐる頭が回っている。それもこれも、布団なんてかぶっているせいだ。俺は布団を突き飛ばしてベッドから立ち上がる。部屋がやけに涼しく静かに思えた。のろのろ歩き出し、鍵を外してドアを開いた。
殴られた。
ブレアに殴られた。
顔を殴られてぶっ飛ばされたことなんて初めてじゃない。何回もやられてるし口の中を切って血を吐いたことだってある。腹を殴られて吐いたことも、当のブレア本人に魔術を使われて何メートルも飛ばされたことだって記憶に新しい。でも、そんなのとは違う、全然違う、今の自分にとって重要なことは、今、ここで、ブレアに殴られたことだ。私は心のどこかで確信していた。この部屋の中じゃ、誰も私を殴らないって。ソウルは怒っても殴りかかったりすることはないし、ブレアは、どうしてか、いつでも私の味方をするって、そんな、ことを、思って。
違う。違う違う。そんなことを考えていたんじゃない。何も知らないこどもじゃないんだから、自分がどこに行っても誰からも優遇されるなんて思っていたわけじゃない。今回のことは明らかに私が悪だ。やらなくてもいいことをしてだから殴られた。理解している。納得してるしもうやらないと思う。そんなことじゃない、ブレアに殴られたことが、ここまでショックで、そのショックの理由を甘えだと考えているこの頭が、死にたいくらい嫌なものに思えるのだ。
格好付けたって仕方がないのに、私は大人のふりをしてこどもの自分をいい気になって観察して、その癖そんなことが恥ずかしくてたまらない。もうどうしたらいいのか分からなくて、足を抱えたまま床に転がっている。立ち上がったり目を開けたりすれば、さっきの光景がよみがえって、もしかしたらまた、またさっきみたいに誰彼構わず殴るかもしれない。さっきみたいなイラつきはないけどそれが怖い。殴られるのも殴るのも好きじゃない、本当は。だから私以外の気配がしないこの空間は、今はとても落ち着く場所で、
「マカ」
場所の、はずなのに。