Holy and Bright
◆3
女に案内されて馬場の近くまでやって来たアンジェリークの耳に、子どもの笑い声が聞こえてきた。そういえば、昨日の歓迎式典には子どもたちも参加していたが、おおよそ笑顔は見られなかった。だからよけいに声の主のことが気になった。
「ルゥ様だわ……」
不意に側にいた女が呟いた。
「え? 神官さんのお孫さんの?」
「あ、はい……」
「ジュリアス……を馬場に案内してくれたのかしら」
「だと思います。ルゥ様の馬もあの馬場にいますから」
アンジェリークは頷いて、馬場のほうへと歩みを速めた。昨日のルゥの様子はアンジェリークも覚えている。彼女にははにかむような表情を見せていたが、ジュリアスにはかなり刺々しい態度を取っていた。祖父である神官から聞いたのか、あるいは大人たちの話を漏れ聞いたのかわからないが、とにかく天使様たる自分が伴の者であるジュリアスに泣かされて目を腫らしたせいで式典開始が遅れたのだと知っていたようだ。アンジェリークは少年の、無知な故のあからさまな嫌悪ぶりに、ジュリアスがいつ怒り出すかと内心ひやひやしていた。だが、ジュリアスのほうは顔色ひとつ変えずにアンジェリークの側で控えていた。あの少年はたぶん今、ジュリアスと一緒にいる。なのに……なんて明るい声で笑っているのだろう。
馬場らしい柵をした場所が見えた。それと同時にアンジェリークの目の前を、一頭の馬が駆け抜けていった。
「う……わ」
思わずアンジェリークは感嘆の声を漏らしたが、それも蹄の音とルゥの笑い声でかき消された。馬上のきらきらと輝き波打つものが見えたが、それも一瞬のことだった。
……ジュリアス様!
アンジェリークは思わず柵を掴んで駆けていった馬の後を目で追った。
「すごい、すごいや、ジュリアス! アウロラがこんなに綺麗に走るなんて!」
手綱を操るジュリアスの腕の中で、ルゥははしゃぎながら叫んだ。
「それに、座り心地がいいよ! 僕、鞍を上手く載せられないんだ」
「それは馬が緊張しているからだ」視線は前に向けたままジュリアスが言う。「緊張したままだと馬の筋肉も張ってしまって鞍が落ち着かないからな」
「それって……僕が緊張していたから?」
「そうだな、乗り手が怖がるとな」
「僕、怖がってなんか……!」
思わず振り返りジュリアスに文句を言おうとしたルゥだったが、頭上から小さく、しかし鋭く「前を向け!」と言われたので、彼は慌てて前へ向き直った。
「よけいな行動をして馬を煩わせるな」
その言葉に、前を見たままルゥは素直に頷いた。馬に乗せるまでの彼とは随分異なる態度だ。ジュリアスは微笑んだ。
「うむ……怖がっているわけではないか」
「そうだよ、怖くないよ」
即答するルゥに、ジュリアスは思わず、はは、と声を上げて笑った。
「最初は誰でも緊張するのだ。アウロラも、おまえもな」
「ジュリアスも?」
「ああ、私もだ」腕の中でなびくルゥの柔らかそうな栗毛色の髪を見ながらジュリアスは返事した。「だから、親しく接することができないこともある」
そう言いつつジュリアスは苦笑した。
……いつもうなだれているか、泣いているか……最初からずっとそうだった。それに対して私はどのようにして接すれば良いかわからなかった−−いや、今もそうだ。
まるで先ほどまでのルゥと、このアウロラのように。
「アウロラも気持ち良さそうだね!」
「走るのが馬の生き甲斐だからな」
「生き甲斐……?」
「そうだ。だから生きることがもっと楽しくなるように、きっちり面倒を見てやれ」
「うん、わかったよ、ジュリアス」
「伴の方……すごい馬さばきですね」
隣の女の言葉で、アンジェリークは我に返った。
それまで、ぼうっとして馬の駆けていく姿を見ていた。馬場自体はそれほど広いわけではないので、ぐるぐると駆けているだけだ。ただし、アンジェリークのいるあたりは小屋などがあるので、そこを避けるようにして走っているせいか、ジュリアスはアンジェリークが来たことに気づかないようだった。こちらの方へ近づくとジュリアスの顔も見える。その穏やかな表情に、アンジェリークは目が釘付けになっていた。
あんな顔、私の前ではされたことない。いつもいつも怒ってばかり。そりゃ私は……面倒ばかり起こしているけど……。
そのジュリアスは、ルゥと何か喋っているようだ。
そして。
「……あ!」
思わずアンジェリークは声をあげた。
……ジュリアス様……声を出して……笑ってる……!
ジュリアス様の笑顔。笑い声。ああやって笑うこともおありなんだわ。あの方が笑うなんて、ないと思っていた。
……ああでも、そんなことないわよね、守護聖様だと言ってもジュリアス様も人の子……よね?
「素敵な笑顔ですこと……」女がぽぅっと頬を染めながら言った。「いつもああやって笑っていらしたら良いですのにねぇ? 天使様」
「え、ええ……そうですね」
そう答えた口調とは裏腹に、気持ちがどんどん落ち込んでいく。
私には笑ってくれない……のに……。
わかっている。ジュリアスの責務を思えば、到底いつもいつも笑ってなどいられない。ましてや、自分のようなごくごく普通の女子高生が宇宙を統べる女王候補だなんて、それだけでも彼には信じ難い事実だろう。女王陛下は神々しい。けれど自分はとてもあんな存在にはなり得ない……。
笑えるはずないか。
アンジェリークは嘆息した。
こんな女の子に、宇宙の未来を託すなんてこと自体が間違ってるんだもの。ジュリアス様は重々わかっていらっしゃるんだ。だから笑えないんだわ、私の前じゃ。
「……戻ります……」
「え、じゃあ伴の方に声をお掛けしま……」
「戻っている、と伝えてください。じゃ」
呟くように言うとアンジェリークはくるりと背を向け、元来た道をひとり帰っていった。
どうやら、泣き顔は誰にも見せずに済んだようだった。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月