Holy and Bright
◆5
人里はすぐに途切れ、目の前に大きな木々の生えた森があらわれた。
「うわ、すごい……」
感嘆の声をあげてアンジェリークはそびえ立つ木々を見上げた。目の端にジュリアスの顎が映った。
こんな暢気なこと言ってたら、怒られる……!
そう思って肩をすくめたが、背後からは「そうだな」という同意の声が聞こえただけだった。実際には怒っているのかもしれないが、この際、表情が見えないというのはアンジェリークには幸いなことだった。
「エリューシオンは、自然が豊かだな」
え、とアンジェリークは思わず振り返ろうとしたが、それはやめておいた。町中でも馬上から観る風景が珍しくてついきょろきょろとして叱られた後だったからだ。しゅんとしたアンジェリークに、フォローのつもりだったのかもしれないがジュリアスがぽつりと、「目はいろいろ動かしてもよい。だが体はやめろ。アウロラが可哀相だからな」と言った。
アンジェリークとしても自分を乗せてくれる馬の負担にはなりたくなかった。怖いと思っていたが、ジュリアスの馬の扱いが上手いせいか、ゆるりと体を揺らされながらのんびりと行くのは楽しかったからだ。
それにしても、今日は何だか不思議だ。誉められてばかりいる。あの、朝の卵焼きと、エリューシオンの自然とを。アンジェリークは嬉しくなった。
「奥へ行ってみるとしよう」
そう言うとジュリアスは手綱を操り、ゆっくりとした歩みでアウロラを前に進めた。細い山道をとろとろと上っていく。
「少し体を前に傾けてくれ」
「あ、はい」
言われてアンジェリークは体を前傾させた。後ろからジュリアスの体が同じく傾き、覆い被さるようにしてアンジェリークの背に密着した。
「良い香りがするな」
「え?」
頭上から思いもかけないことを言われてアンジェリークは目だけを上に向けた。ジュリアスの顎がアンジェリークの頭に軽く触れているのがわかる。
「ああ……私としたことが、突拍子もないことを申したな。おまえの髪の香りだ」
「あ、それはオリヴィエ様からいただいたソープセットのシャンプー……」
言いかけてアンジェリークはにわかに昨晩のことを思い出した。そういえばまだ謝っていない。
「ジュリアス様!」
「大声を出すな。馬が驚く」
「は、はい……」
「何だ?」
「昨日の夜のこと……すみませんでした……」
「飛空都市に戻ったらオリヴィエにはきつく言っておこう」
「あ、オリヴィエ様を責めないでください、私が物知らずなのに、知ったかぶりをしたから……」
「ふ……わかって言っていたらどうしようかと思ったぞ」
意味を思い出してアンジェリークは真っ赤になった。
「ご、ごめんなさい! あの……」
言いかけてアンジェリークは言葉を止めた。背からジュリアスの体が小刻みに揺れているのを感じた。
え……?
「もう良い」
ジュリアス様……笑ってる……?
「これから気をつければ良いのだ」
「ジュリアス様……笑ってます?」
顔が見えないのを良いことに、アンジェリークは軽く怒ったふりをして聞いてみた。他の守護聖にだったらいくらでもやっている言い方だが、ジュリアスに対してやってみたのは初めてだった。
「ああ、すまぬ。だが……悪いが、部屋に帰って笑わせてもらったぞ」
「……ひどーい」
控えめにだが、もう少しくだけた様子で言ってみた。笑いの揺れは少しおさまったようだったが、頭上からは穏やかな声がした。
「これからは、しっかり学ぶことだな」
「はい……そうですね」
本当にそうだ。そう思ってアンジェリークは頷いた。
「しかし」
「え」
「おまえも、民に教えてやっていたのは良いことだ」
「あ……朝のことですか?」
「ああ。どうしたのだ、急に台所で料理や……掃除したのもおまえであろう?」
「はい……あんまり汚かったので」
まさか、自分だけには笑ってもらえないと拗ねて、考え込んでもむしゃくしゃするので、手を洗いに行った台所で思わず体を動かしがてら掃除と料理を始めてしまっただけ、なんて言えなかった。
「綺麗好きなのだな。それにあの料理も美味しかった。礼を言うぞ」
……えええ、また誉められちゃった? どうなってるの?
アンジェリークは、今度こそそんな言葉を連発しているジュリアスの顔を見てみたかったが、そうするとこのささやかな幸せが逃げていってしまいそうな気がして、少し口ごもりながら「あ、ありがとうご……ざいます」とだけ言った。
「料理は自分でこなすのだな」
「いつもママ……母のお手伝いをしていましたから、簡単なものなら作れます」
「そうか」
こんな話をジュリアスとしたことなど、今まで一度もなかった。いつもなら、育成の話に終始し、逃げるようにしてアンジェリークはジュリアスの元から去っていた。だが今は同じ馬に乗って、彼の腕の中にいる状態なので逃げようもないが、顔が……あの厳しい瞳が見えないのは本当に楽だ。
「母親のことはよくわからぬが、私も先代の女王陛下にあの……卵と牛乳を溶かし込んで焼いたつるりとした喉ごしの菓子……」
「プディング、ですか?」
「ああ、そうだな。それをもらったことがある。熱を出して寝込んだときに。美味しかった」
「女王陛下がお菓子を?」
驚いてアンジェリークは少しだけ大きめの声を出したが、アウロラのことを思い出して語末は小さくした。
「そうだ。熱にうなされた後だったからよけい美味かったのだろう」
背後がその後静かになった。何か思い出しているのかもしれない。ジュリアス様でも、懐かしく思い出すことがあるんだわ、とアンジェリークはより親しみを感じた。
私はいったいこの少女に何を話しているのだろう。
ジュリアスは腕の中にアンジェリークの体の温かさを感じながら思った。
あの、とろりとした卵の料理でふと思い出したのだ、きっと−−。
幼いときに熱でうなされ、それが引いて目覚めたときに、先代の女王陛下がいらしたことを。ベッド際にいた彼女は微笑み、私を見ていらした。その、あまりにも慈愛に満ちた神々しさに私は声も出せなかった。
この腕の中の少女とは違う。
あの聖なる輝きを放つ御方とは。
「さあ、少し急ぐぞ」
そう言うとジュリアスは、軽く踵でアウロラの脇腹を蹴って扶助を出した。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月