Holy and Bright
◆7
「ほら、水道だってちゃんと元通り、出るじゃない」
部屋に備え付けられた浴室のバスタブに浸かりながらアンジェリークはひとり呟いた。もっとも、少しぬるいし、バスタブもなんとなくぬるりとしている。もやもやとした気持ちでいるこんなときは、思わず湯を抜いてごしごしとバスタブを磨きたくなるアンジェリークだったが、この湯を抜いてしまったら、もしかしてまた水が出なくなるのではないかという気がして……気がしたところでアンジェリークはもう少しで水面に顔を浸けそうになる寸前のところまで俯いた。
私もどこかで信用してないのかなぁ……エリューシオンの民のことを。
何となくだらりとした風情で過ごす民たちの生活ぶりは、今日一日馬上から見ていただけでも窺い知れた。割と細かなことは気にならない自分ですらそうなのだ。ましてや規律を尊ぶジュリアスからすれば、さぞや自分の育成する大陸の民たちは不甲斐なく映るだろう。
でも。
民が欲しない力を与えるのは、育成の方法としては間違ってると思うのよね。それを、自分の力が求められないからって……。
そうは思いながらも「民が望んでいない力を与えたくない」と言ったときのジュリアスの顔を、アンジェリークは苦く思い返していた。
……あの方が、あんな顔をされるなんて。
言葉を発してしまってから、アンジェリークは思わず目を瞑り、口を手で覆った。
言い過ぎだ。いや、明白な事柄だからこそ、言ってはいけないことだってある。ましてやこのエリューシオンを育成する自分こそ、言ってはいけない言葉が。
怒鳴られる、と思った。
だが。
「……そうか」
返った言葉はそれだけだった。
はっとしてアンジェリークが口から手を離し、目を開けたとき見たものは、途方に暮れたような表情のジュリアスだった。
なんて弱い目の光。
息を呑み、何か言おうとしたときにはもう、ジュリアスはアンジェリークから背を向けて、アウロラのいる方へ戻っていた。
「あ、あのジュリアスさ……」
「日が陰らぬうちに戻ろう」
馬に慣れないアンジェリークの調子に合わせたせいか、ゆっくりと進んできたので、確かにそれなりの時間が過ぎていた。
「あの」
アンジェリークの声には応えずジュリアスは、アウロラの側で片膝をたてて跪いた。踏み台の代わりに自分の膝の上に乗って鐙に足をかけるよう促しているらしい。
「……失礼します」
小声で言い、なるべく体重をかけないよう−−実際はそのようなことは無理なのだが−−アンジェリークはジュリアスの膝に足を乗せた。
馬上のアンジェリークは行きのように背にジュリアスが来るのを待ったが、ジュリアスはアンジェリークを鞍につかまるよう手で指示すると、自分は手綱を引いて今来た道を歩き始めた。
「あの、私が歩きます。ジュリアス様が乗って……」
言ってみたが、返事はなかった。それはそうだ。やがて町中に戻ってきたら、皆、ぺこりと頭を下げる。自分はここでは“天使様”であり、ジュリアスは伴の者なのだ。まさか逆になるわけにはいくまい。しかし。
(一緒に乗りたくないぐらい、私のことが嫌なんだわ……)
気持ちが滅入っていく。けれど、それを招いたのは自分の言葉なのだ。
「だからって!」
バスタブからざばっと体を起こすとアンジェリークはまるで天井にジュリアスがいるかの如く睨みつけた。
「あんな嫌みなこと、しなくてもいいと思うのよねっ!」
浴室に声が反響する。
馬場に着いたところで、お帰りなさい、と出迎えた神官の孫ルゥにジュリアスは、館に戻りがてら彼女を送り届けてほしいと頼んだ。自分はアウロラのブラッシング等してから戻るから、と。
「僕がやるよ、ジュリアス」
至極当然なことをルゥは言ったが、ジュリアスは、頼むから、と再度言った。その間中、アンジェリークは黙ってその場に立ち尽くしていた。嫌なことをする、と思う一方で、ルゥと一緒に館までの道を戻るほうが気楽だと思う自分もいた。
ルゥはアンジェリークの方を仰ぎ見た。
「天使様、ジュリアスと何かあったんですか?」
すっかりジュリアスと呼び捨てだわね、と苦笑しつつアンジェリークはルゥを見た。
「ちょっとね。でも大丈夫よ」
何が大丈夫なのかわからないが、アンジェリークはとりあえずそう言わざるを得なかった。こんな幼い子どもでもわかるような気まずさを見せびらかすよりは、確かに別行動を取るほうが良いかもしれない。
だからって。
バスタブから出るとアンジェリークはタオルを体に巻いて部屋に戻った。リュミエール様からいただいたハーブティでも飲もうかな、すっきりするっておっしゃっていたし。ああ、それにクラヴィス様からの蝋燭を灯して……まだ夕食があるから寝るわけにはいかないけど。
そう思いつつ鞄をごそごそと探ると、手に冷たい感触が触れた。
銀色のボタンの箱。
ぎくりとした。そしてため息がもれた。
これを押して、ロザリアとおしゃべりでもできたら気も紛れるのになぁ。
まだエリューシオンに来て二日目も終わっていないというのに、アンジェリークはひどく孤独な気持ちになった。だがいつまでもぼうっとしているわけにもいかず、ハーブティの入った袋と蝋燭の入った箱だけを取り出してベッド際のテーブルに置こうとした。
「あ、辞書……!」
どうやらあの女は持っていかずそのまま置いていってしまっているらしい。
民たちに悪気はない。いたって普通に暮らしている。なのに何故このように……。
気を取り直すべくハーブティを煎れるための湯をもらいに、アンジェリークは台所に行った。そしてそこで見たものは、朝、アンジェリークが掃除する前に見た光景のままだった。アンジェリークはもう、憤りを通り過ぎて呆然とするしかなかった。
「あ、天使様! 呼んでくだされば……」
ぼうっとそこにあった椅子に座っていた件の若い女は、アンジェリークの姿を見ると立ち上がって微笑んだ。
そう、悪気はない。けれど何かおかしい。何かが決定的に欠落している。
そう思った瞬間、アンジェリークの中でぐさりと刺さったものがあった。
誇りを司る、光の力。それは、人に生きていく意欲を与える。
ここエリューシオンにいるアンジェリーク自身、他の力が充ち満ちていることはとても強く感じている。だが何故民はこの光の力を欲しないのだろう。ジュリアスには思わず反論してしまったけれど。今まで、光の力による育成を頼まれないことを都合良く感じていたアンジェリークは、そのことから目をそむけてきた。
民が望まないから、じゃない。
何故望まないのか、が問題なのだ。
「……神官さんは?」
「あ、はい、ご自分のお部屋にいらっしゃると思いますが……」
確かめなきゃ。
そう心の中で呟くと、アンジェリークは台所を後にした。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月