Holy and Bright
◆11
庭から自室まではほんの少しの距離だ。
だがジュリアスには、すさまじいほどの遠さに思えた。そして部屋に近づくにつれ、彼の部屋のドアの向かい側のドアの奥を恐ろしく感じた。
恐ろしいのか。
彼は今まで恐怖を感じたことなどなかった……幼いころ、いつも小さな肩をいからせ、首座なのだからと自分に言い聞かせていたのに寝付いてしまったときですら、これほどの恐怖を感じなかった。第一あの後には当時の女王自らの看病もあった。女王を護るための守護聖なのに、護られていると思った。
だが今は、たったひとり、ぽつんとこの地に放り出されたような孤独から生じる恐怖を感じる。何故このように感じるのだろう。今までの自分が自分でないような気がするなんて。
サクリアがない。
光の力が感じられない。
部屋に近づいた。そして、聞きたくないものが聞こえ始めた。薄いドアと壁を通して、エリューシオンの天使が泣いている。その激しい嗚咽にジュリアスはドアとドアの間で立ち尽くした。
いつもなら部屋に乗り込み、無理矢理にでも話を聞かせただろう。
違う。決してこれは悪意によるものではない。力を発することができないのだ、育成するための光の力を与えることができないからだ、体にサクリアを感じないからだ−−
身震いした。
いつか来ることだ。わかっている。そういう守護聖を何人見送ってきたかわからない。そうしてとうとう歴代でもかなりの年数を経た守護聖となってしまった。だが、こんな突然、しかも、こんな肝心な時に……!
アンジェリークの泣き声から逃げるようにジュリアスは自分の部屋に入り、強くドアを閉じた。きっとアンジェリークにもその音は聞こえているだろう。そして酷い者というレッテルがより強い印象を持って貼られたことだろう。
ジュリアスはクロークに入れていた鞄の取っ手を掴むと、荒々しく開き中を見た。銀色のボタンのついた箱が目に入った。一瞬たじろぎ、彼は頭を横に振ると別の小型の通信装置を出した。これは首座である彼が飛空都市を留守にする間に何かあったときのための連絡用通信機だった。
起動させる。するとそこには椅子の背もたれに体を預け、目を閉じたままの闇の守護聖が映った。彼は緩慢な動きで目を開くと、映像を通じてジュリアスのほうを鬱陶しそうに見た。
「何だ、ジュリアス。もう里心がついたのか」
いつもの少し棘のある言い方も、今のジュリアスには何の感覚も与えなかった。
「クラヴィス、聞きたいことがある」
「何だ」
言葉を発しようとしてジュリアスは、一瞬その言葉の内容に凍りつきそうな恐怖を感じて黙り込んだ。
「……用がないなら切るぞ」
クラヴィスにそう言われ、ようやくジュリアスは重い口を開いた。
「私のサクリアを感じるか」
クラヴィスの眉が動いた。
「何だと」
「私の……光の力を感じるか、と尋ねている」
そう言うとジュリアスは目を閉じた。クラヴィスの表情を見たくなかった。そんなジュリアスをクラヴィスは面白そうに見つめていたが、やがてぽつりと返した。
「暑苦しいほど感じるが……?」
ぱっとジュリアスは目を開いた。思ったより穏やかなまなざしでこちらを見るクラヴィスが映っていた。ほっとしてジュリアスは思わず息を吐いた。
「どうした」
「いや、ならば良い。手間を……」
通信を終わる言葉を言いかけてジュリアスは内容を変えた。
「……ここ、エリューシオンでは、私は力を発することが……できないのだ」
ジュリアスがクラヴィスに対し、このように言うのにはかなり気力が必要だった。恥ずべきことのように思えたからだ。
「何……?」
クラヴィスが背もたれから体を起こし、身構えたのがわかった。
「サクリアを感じ……ないのだ。どう思う……?」
何とか途切れないように言ったつもりだが、声はかすれていた。
「ほほう」
そう言うとクラヴィスは少しだけ唇の端を上げた。
「おまえは一体、何年守護聖をやっているのだ? ジュリアス」
「そなたに、そのようなことを言われる筋合いはない」
やはりクラヴィスに言うのではなかった、とジュリアスは後悔したが、かまわずクラヴィスは続けた。
「守護聖は何のために在る。女王がその力を求めるからだ……女王が求めなければ、守護聖やその力など存在しない、つまり」
ジュリアスは通信を切るスイッチに手をかけた。だがそれを押すことはできなかった。これからクラヴィスが言うことはわかっている。わかっているのにジュリアスはクラヴィスの顔を見つめていた。それはまるで、とどめを刺す相手を捜す自殺行為のようだ。
そしてその望みどおり、クラヴィスの言葉はジュリアスにとどめを刺した。
「エリューシオンとその天使はおまえの力を要らぬと思っている。だから、光の力を発するためのサクリアは存在しな……」
「手間を取らせた。感謝する」
映像がふっと消えた。どうにかスイッチを押すことができた。押したまま、ジュリアスは身じろぎもせず、今そこにいたクラヴィスの言葉を反芻していた。
私の力を要らない、と。
光のサクリアは存在しない、と。
ふと、一昨日ディアから聞いた言葉を思い出す。
「ジュリアス。エリューシオンに着けば、あなたは『エリューシオンのアンジェリーク』の守護聖となります。それをよく覚えておいてくださいね」
そうか。
では、力を発することができないのは、「『エリューシオンのアンジェリーク』の守護聖」ではないからだ。アンジェリークが自分−−光の守護聖ジュリアスという存在を必要としていないから−−
ジュリアスはずるずると床に座り込んでしまった。体を支える力がすべて抜け落ちたようだった。呆然と空間を見るジュリアスの目に、あの銀色のボタンのついた箱が映った。
あのボタンを押すべきかもしれない。ただしそれはアンジェリークの女王試験失格を意味しない。光の力についてまるで知らない民が住み、光の力−−光の守護聖を要しない天使の統べる大陸エリューシオン。そこに、ジュリアスの居場所はない。
失格なのは……ジュリアス、おまえだ。
腕を振り上げるとジュリアスは、思い切り床面を叩いた。
--- chapter 2 了
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月