Holy and Bright
◆2
「んーっ!」ぐい、と背伸びをするとルゥは大きく息を吐いた。「すごいなぁ、ジュリアス。僕、森のこんな奥深くまで入ったこと、ないよ」
「そうか」
短く答えるとジュリアスは、馬のアウロラに水を飲ませるべく小さな泉の岸辺へ連れて行った。 背の高い樹々で覆われたここは道筋から少し降りた所にある。
「でも、ぼちぼち戻ったほうがいいかも。日が落ちるの、早いから」
ルゥはそう言うと、自分も泉の水を手ですくって飲んだ。
「腹が空いたのではないか?」
その問いに、ルゥは心外だと言わんばかりの顔をした。
「ジュリアスこそ、昨晩から何も食べてないでしょう?」
ルゥのその言葉に、ジュリアスは答えなかった。
「おじいちゃんも、僕も、食堂で天使様とジュリアスが来るの、待ってたんだよ? でも二人とも来ないんだもの」
「……申し訳ないことをしたな」
「僕はいいんだけどさ、おじいちゃんがジュリアスのこと、怒ってるよ。『また天使様を泣かせたのでは』とか言っちゃってさ」
ぷりぷりとした様子で言いながらもルゥは探るようにジュリアスの顔を見た。昨日の二人のことを一番わかっているのは他ならぬルゥだ。だがどうやら祖父である神官に二人の気まずい様子までは話さなかったらしい。
ジュリアスは微かに笑みを浮かべた。むしろ苦笑、と言ったほうが良いかもしれないが。
「……何故、私を庇った? 神官殿の言うことは……間違いではないのに」
そうだ。私が泣かせた。泣かせるどころか怒らせた。そして私は−−断ち切られた。
無用の者として。
とたんに苦いものがこみ上げてくる。食欲など湧くはずはない。
「だって」ルゥはまっすぐジュリアスを見た。「馬のこと、きちんと教えてくれたもの」
即答だ。ジュリアスは少しいぶかしげにルゥを見つめた。この少年だけはどうも他のエリューシオンの民とは異なる。何が……違うのだろう。
「子馬が育たないって話、したでしょう?」
「ああ」
「あれって、子馬が生まれても、誰も面倒を見ないからなんだ」
「な……」
思わずジュリアスは目をみはった。好きが高じて、聖地の私邸では多くの馬を育てているジュリアスには考えられないようなことだった。
「そりゃ生まれたときは皆、すごく喜ぶんだよ? これで生活も楽になるって。でも」
泉のほとりにしゃがむとルウは、水の中に指を浸してくるくると回した。
「放ったらかしなんだ。僕がもうちょっと大きくなって、いろいろ面倒を見られたらいいんだけど……」
きっと何頭かの子馬の死を見てきたのだろう。痛ましく思いつつジュリアスは項垂れるルゥを見ていたが、はっと気付いて言った。
「ルゥ。おまえの両親はどうした?」
馬の話からいきなり話題が変わったので、ルゥは少し驚いたような表情を見せていたが、再び目を伏せ、泉の水と戯れつつ言った。
「死んじゃったよ。流行病だったんだって」
「……そうか」
悪いことを聞いたが、たぶんそうではないかとジュリアスは想像していた。ジュリアスの力の満たない星ではよくある話だ。生きる意欲が人々から無くなるため、たとえ病気になっても自身が治ろう治りたいと思わず、周囲ももう助からないと思い込む節がある。もしくは世話を怠る。馬も人も、そうなのだ。
わかってはいても、ジュリアスにはどうすることもできない。サクリアを感じられず、力を発することができないのだから。
そのとき、突然ルゥがすっくと立ち上がった。
「だから僕、あの“光の力”が必要なんだと思うんだ!」
その言葉に、ジュリアスはまるで平手打ちを受けたような衝撃を受けた。
「おじいちゃんにいくら言っても、あの本を読んでもらえないんだ。目が悪くて読みにくいのはわかるけど……だから」
ジュリアスの正体を知らないはずなのに、あたかも知っているかの如く、ルゥはジュリアスに向かって叫んだ。
「僕が神官になったら、天使様にお願いするんだ! その“光の力”を!」
「ルゥ……」
今わかった。何故この少年がエリューシオンの他の民と異なるか。“光の力”について知っているからだ。しかも知るだけでなく欲しているからだ。
けれど。
「……そりゃ、あの日記によれば、“光の力”を願うと天使様はあまりお喜びにならなかったみたいだけど……」
呟くように言うとルゥは、腕をぐるぐると振り回しながら泉とジュリアスから背を向けた。
「なんで天使様は“光の力”をお願いするのを嫌がるんだろう」
ぽつりと出た言葉に、ジュリアスは泉のほうへ顔を向けたまま思わず目を閉じた。そして、最後に光の力での育成について話をしたときのアンジェリークの様子を思い出していた。
「しばらくぶりだな、アンジェリーク」
王立研究院に行って、パスハと話をしているとアンジェリークが現れた。声を掛けるとぎょっとしたようだった。
「は、は、はい……」
「何故私の力の依頼に来ない? 民は私の力を欲していたのではないか?」
「はい……あの……」
パスハから受け取った報告書に目を通しつつジュリアスは言った。
「どう見ても決定的に量が少なすぎる。何故このようになるまで放っておくのだ?」
「はい……」
「他の者たちと親交を深めるのも良いが、きちんと育成をこなすことこそ、おまえの本分ではないか?」
今から思うと、やっかみのような言い方だったように思う。他の守護聖には向けられる笑顔が、自分の前では凍りつくのが不愉快だった。
「……」
案の定、アンジェリークは俯いて黙ってしまった。頭を垂れる彼女の、あの白いうなじが見えた。
「もう良い。それより、明日にでも育成の依頼に来るがよい。良いな」
「…………はい……」
返事は微かにしか聞こえなかった。そして流星盤に乗って彼女はエリューシオンに行ったところまでは見たが、以降、定期審査等以外はほとんど顔を合わすことはなかった。
疎まれることに決して慣れたわけではない。それでも自分としては、育成という大事をもっと自覚してほしいと思っていた。首座の守護聖として女王の苦労を間近に見ることの多い身としては、どうしても粗が目についてしまう。先代の女王陛下を思うと、その格差に気が遠くなるほどだ−−。
何を。
ジュリアスは胸に鈍い痛みを感じた。
そう思って叱咤した少女に、自分は力を奪われている。彼女の意志の前では、自分がいかに無力かを思い知らされている。
ルゥが神官になるのは、そう先の話ではない−−聖地の中においては、たぶん一瞬の出来事だろう。だが彼が光の力を願うとき、状況はどうなっているだろう。
もしかしたら……光の守護聖というものが、存在しないことになるかもしれないのに。
「ジュリアス!」
呼ぶ声にジュリアスの思考は寸断された。ルゥだ。振り返ったが姿が見えない。
「こっちだよ、見て!」
この泉に来るまえに通っていたけもの道のような山道に立ち、ルゥが指で指し示しつつ叫んでいた。
ジュリアスがルゥのほうへ行こうとしたとき、側でアウロラが急に嘶<いなな>いた。アウロラを気にしつつジュリアスは近くにあった木に手綱をくくりつけておくと、道端のほうまで戻ってきた。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月