Holy and Bright
◆3
天使様がいらした。
早速、光の力−−我らが最も望む力を願い立てる。
今の我らには欠くべきものだ。
だが、天使様の御顔が曇った。
我らの望みは、天使様が名付けてくださったこの大地、エリューシオンの発展。
光の力はその意欲を奮い立たせるためには必要不可欠なものだ。
天使様はエリューシオンの発展を望まれないのか。
それとも、光の力に対し何か思うところがおありなのか。
天使様が我らのことをないがしろにされるはずはない。
長老たちと相談する。
天使様の笑顔に陰りがあったこと、長老たちも大層気にしていた。
光の力を望むことによって、何か災いがあるのかもしれない。
しかし我ら民の意志を尊重して天使様は、この願いを聞き届けようと努力されているのかもしれない。
天使様のお考えにそぐわぬことはしたくない。
何より、あの聖なる輝かしい笑顔を曇らせたくはない。
ならば、我らは光の力を望むのはやめよう。
光の力の存在を忘れよう。
私がそう長老たちに話をすると、彼らも同様に頷いた。
体が震える。
アンジェリークはその震えを抑えるべく自分で自分の体を抱きしめた。
これは神官ルーグの父で、前任の神官レイの手による日記らしい。レイのことはついこの間のことのようによく覚えている−−当たり前だ。アンジェリークがレイと幼いルーグを見たのはほんの少し前だったから。そしてレイが亡くなり、大人になったルーグがいて、次に来たときにルーグは娘夫婦を亡くしたと泣いていた。まだ生まれて間もないルゥは言葉も話せなかった。
幼いころに見た“天使様”は、本人が成長し、結婚して子どもを為し、年老いて孫の相手をしている時になっても変わらぬ姿で彼らに接する。それゆえに、大陸を育成する天使、という以外の不思議で神聖な印象を彼らに与える。その威光たるや、アンジェリークが想像する域を完全に越えてしまっているのだろう。
だから。
アンジェリークはただ、光の力を依頼されると、ジュリアスの執務室に行かなければならないと気鬱になっただけだ。だが、民にしてみれば“天使様”の顔を曇らせる“光の力”は何か支障があるものに映った。自分のたんなる好き嫌いが……自分の一挙一動が、民たちにとってその存亡に関わるほどの重要な事柄になる。
だがそれは、ジュリアスから何度も叱咤されてきた中で言われていたことだ。今初めてそれを実感した……体が震えるほどの恐さを伴って。
光の力を望まないと、やはり天使様はほっとされているようだ。
良かった。天使様に不愉快な思いはさせたくない。
天使様は育成に励んでくださり、頻繁にエリューシオンへ訪れてくださる。そのおかげで聖なる力は満ちつつある。
良きこと哉。
ルーグには、力は八つあると教えた。
「九つあったのでは」と言われたが強く否定した。
長老たちも口を噤<つぐ>んだままこの世を去った。
後は私が黙って逝けば良い。
ただ、はたしてこれが正か否か。
私には判断がつかない。けれど、天使様が望まぬものを、私たち民が望むべきではないと思い返す。
何故なら、天使様にとって光の力は、要しないものに違いないのだから。
何人も、天使様を悲しませてはならない。
アンジェリークが悲しむからというだけで、エリューシオンの民は“光の力”という存在を抹消してしまった。
それなら願われるはずはない。存在しない力は願われはしない。
「私が……消した……?」
呟いたアンジェリークは、はっとしてエリューシオンに来る前に聞いたディアの言葉を思い出した。
『エリューシオンにいる間、ジュリアスは女王陛下のではなく、あなたの守護聖ですからね、あなたが望めば力を発揮するし、望まなければ力は使われることがない』
ベッドの上で座り込んでいたアンジェリークは、いつの間にか手の下のシーツをぎゅっと掴んでいた。
『……あなたが?』
『あなたが願ったから?』
あのジュリアスの笑顔。初めて見た、アンジェリーク自身に向けられた笑顔は、ひどく儚げなものだった。彼はわかっていたのかもしれない。願っていると言った彼女の嘘を。それでも耳にした言葉に、微かな望みを託したのかもしれない。けれど、結果は残酷なほどの正直さをもってジュリアスに知らされた。光の力を発することのできなかったジュリアスの、悲痛な顔を思い出す。 なのに私は……意地悪だと罵<ののし>った。
私。
私が、民から光の力という存在を忘れさせた。
私が、光の力についてのすべてを根こそぎ奪った−−光の守護聖ジュリアスの、そのサクリアすらも。
ベッドに突っ伏すとアンジェリークは呻<うめ>いた。いつもなら泣き叫ぶところなのに、涙どころか声すらも出なかった。
『どうするかは、あなたしだい』
ディアの声が頭の中で反響した。
部屋の隅には、三つ並んだ鞄がある。アンジェリークは顔を上げ、その中の一つを見つめた。
やがて、にじるようにしてベッドから出るとアンジェリークは、ふらふらとした足取りでその側まで来て座り込み、鞄の中を探った。
指先にかちりと当たった。
銀色のボタン。
これは私の罪を認めるよう女王陛下が与えられたもの−−ああ、そうだったんだ。おまえには女王試験を受ける資格などないのだと認めさせるための。
今こそこれを押す時に違いない。指に力を込めようとしたそのときだった。
「天使様! 大丈夫ですか?」
そして相変わらずノックをしない女が手に水の入ったグラスを持ちながら、床に座り込んだアンジェリークの元へ足早に近づいた。
とたんにアンジェリークはまるで夢から覚めたかのようにびくりと体を震わせた。
「あ……」
小さく声が漏れた。
いけない。
そんなことをしている場合じゃない。
民……私のエリューシオンの民。
あらゆる力に満たされているのに、明日をより良く生きたいと願う気持ちが欠落してしまって、良いことも悪いことも同じように繰り返し、先へ進めない私の民。
「お水をお持ちしましたよ、さあ」
グラスの中に揺れる透明の液体を見たとたん、激しい乾きが起こった。グラスを持つとアンジェリークはそれを一気にあおった。そしてその水で眼まで潤ったかのようにようやく涙がこぼれた。
「……天使様……?」
「……ジュリアス……は、視察に出た……と言いましたね……?」
「はい、ルゥ様が伴の方の部屋の前で構えていらして、伴の方にしがみつくように一緒に出られましたから」
「ルゥが一緒なの?」
頷く女に、アンジェリークは何故か少しほっとした。ルゥ。たぶんこのエリューシオンで唯一ジュリアスに対し理解を示した幼い次期神官。
……私よりもずっと。
何となく、彼と一緒ならジュリアスも少しは救われているかもしれないとアンジェリークは思った。少なくとも、ジュリアスひとりでいるよりは。
指先で涙の流れを抑えると、アンジェリークはきっぱりと言った。
「神官さんに、お会いしに行くと伝えてください」
了解したと頷き、女は部屋から出て行った。
ボタンは押さない。
いや、押せない。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月