Holy and Bright
◆4
選択の余地はなかった。
先ほどまでいた泉のある場所には、すでに馬の群れの一部が走り込んでいる。かと言って、このまま止まって良いはずがない。どちらにしても大量の蹄の下に沈むことになってしまう。
ならば、来ない方へ行くしかない−−ジュリアスにはそこがどのような状況かわかっている。先ほど泉に行く前に見たそこは、馬すら行かない、崖に近いような急斜面だった。
それでも。
「目を瞑<つむ>れ」
それだけ言うとジュリアスは、ルゥの肩を抱きかかえるようにして掴み、そのままの勢いで飛び込んだ。
その瞬間、すさまじい馬の蹄の音に混じって鈍い音がした。腕の中にいたルゥにも、その震動が伝わってきた。
「どうしたの、ジュリアス!」
ルゥは叫んで呼びかけたが、返事はなかった。ただ、強く抱き締められ、庇われていることだけは実感できた。
枯れたり折れたりして落ちている樹の枝々やぼうぼうと生えた草の多い斜面を、二人はもつれるようにして転がり落ちていった。
頬に何かすれるような感触があって、ルゥは目をゆっくりと開いた。湿った枯葉が頬に当たっている。そこで初めてルゥは、自分が地面に突っ伏していることに気づいた。その体に、被さるようにしてジュリアスの腕が載っている。
大量の蹄の音が遠く離れていくのがわかる。そして、再び森は静けさを取り戻した。
「……ジュリアス?」
ぴくりとも動かない腕に不安を感じ、ルゥはそっと体を動かしてジュリアスの方を見た。
顔が見えない。
彼の黄金色の髪が、微かに土が見える以外は一面の落葉や枯草が敷き詰められている地面に広がっている。俯<うつぶ>せになって倒れていることだけはわかった。顔を覆う髪を払おうとしてルゥは、目の端に映ったものに気づき、ぎくりとして動きを止めた。
ジュリアスは乗馬用の長い筒状になったような革靴を履いていたように思う。だが、右足のほうのそれは裂けていた。そしてそのあたりが真っ赤に染まっており、それどころか血だまりができている。
そんな大量の血を見たことのないルゥは、悲鳴もあげることができなかった。
そのとき、樹々の合間から微かに漏れる日差しが陰った。はっとしてルゥは、空を見上げた。
姿は見えないが、ものすごい数の鳥が飛んでいく気配がした。やがてそれはバサバサと、実際に音としてルゥの耳に入ってきた。
「なに……?」
ルゥは恐慌に陥り涙目になった。
馬の大群が走ってきたときは純粋に嬉しかった。またこれで良い馬が飼えると単純に思った。けれど、迫ってくる馬はとてつもなく恐ろしい形相をしていた。そしてこの鳥の群もそうだ。
……まるで何かから逃れるかのよう……。
『森の奥で何かが起こっているのだ』
ジュリアスの言葉を思い出す。
「……ジュリアス……」
なんとか声は絞り出すことができた。ルゥは息を吸い込んだ。
「ジュリアス! 起きて……起きてよ!」
本当は体を揺さぶりたかったが、そうするとまた血が出てきそうな気がしたので、ルゥは懸命に叫んだ。だが依然としてジュリアスはぴくりとも動かない。
「……と……とにかく……血を止めな……きゃ」
ルゥは自分が着ていたシャツを脱ぐと、裂こうと手で引っ張ったが上手くいかなかった。そこでふと小剣を持っていたことを思い出し、ざっと切り裂いた。そして本当は怖くて怖くてたまらなかったが、歯を食いしばってジュリアスの足を持ち上げようと触れた。
そのとたん、ジュリアスの体が跳ねるようにして動いた。
「ジュリアス!」
いったん起き上がったものの、再び地面に倒れそうになった体をなんとか受け止めて、ルゥは必死で声をかけた。
「痛かった? 痛かった? ごめん……ごめんね、ジュリアス」
そう言っている自分の腕に、ルゥは激しい痛みを感じた。見るとまるで食い込むようにしてジュリアスの指がルゥの腕を掴んでいた。
「く……っ!」
まだ髪が覆っていて、ジュリアスの表情は見えていないが、苦痛に満ちた声が漏れた。
「駄目だよ、動いちゃ!」
「……おまえは……無事か」
絞り出すように、けれど切れ切れになりつつジュリアスが尋ねた。ルゥはジュリアスを支えつつ自分の体を見回した。確かに枝等の細かなひっかき傷やすり傷はあったし、肩など体も多少は痛みを感じる。でも。
「大丈夫だよ、ジュリアスのおかげで……」
ジュリアスの傷の酷さを思えば、たいしたことはない。ルゥはなんとかお礼を言おうとしたが、あまりにジュリアスが可哀相で言葉に詰まってしまった。
「……もっと私の……体を……起こせ……るか……」
「う、うん……」
ルゥはジュリアスの指の力が緩むのを確認すると、横側にあった体を、ジュリアスを支えながら背中のほうへ移した。十歳に満たない体で大人の男の体を支えるのは骨が折れたが、力を入れて顔を真っ赤にしながら、ゆっくりとジュリアスの肩を引いて自分にもたれさせるようにした。
その手の中の肩がびくりと動いたことだけはルゥにもわかった。負傷の実際を知って、ジュリアスも驚いたに違いない。
「ジュリアス……あの」
「……よく聞け、ルゥ」
低い、威圧感のある声が否応なしにルゥの言葉を遮った。
「これは……推測の域……想像しただけだが……森の奥……で」そこでジュリアスは大きく呼吸した。「何か厄災が……起こっていると……思われる」
「ヤクサイ?」
「……たとえば……山……火事」
ルゥは慄然<りつぜん>とした。火事がいかに恐ろしいものか、幼いながらも次期神官として祖父に付き添うことも多くなったルゥは知っている。連れられて火事のあった現場にも行ったことがあるからだ。
「ジュリアス……さっき僕……鳥も集団で飛んでいくのを……」
ふぅ、とジュリアスはため息をついたようだった。
「当たり……か」
「ど、どうしよう……! 早く逃げな……」
言いかけてルゥは、自分の血の気がひくのがわかった。
「当然……だ。私の……ことは……良い」
まるでルゥの思いを見透かしたように、表情が見えないままジュリアスが言い切った。
「ち……ちょっと待って、ジュリアス……! こんなジュリアスを放っておけな……」
「戯<たわ>けたことを……申すな」
「え」
「ルゥ……話すのが辛いから……黙って私の言うことを……聞け」
ルゥは泣きそうになりながら唇を噛んだ。
「おまえ……には大切な……この地の……次期神官として……大切な任務が……ある……。一刻も早く戻り……このことを……知らせる……のだ……神官殿と……」
言葉の途切れを気にしてルゥが継いだ。
「……天使様に?」
「……そうだ」
しばらく間が空いた。ルゥは黙って続きを待った。
「……もっとも……あの馬の……大群が集落へ行って……いなければ良い……がな」
それを聞いてルゥはもうがまんできず、後ろからジュリアスの体を支えつつ腕を回して彼の黄金色の髪に顔を埋めた。恐くて恐くて震えが止まらなかった。
「……ごめんなさい……」小さく呟くとルゥは「続けて」と言った。
「まず……この斜面を登れ……そして……アウロラが無事かどうか……確認しろ」
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月