Holy and Bright
◆5
「光の力……ですか」
「そうです、ルーグ」
アンジェリークは神官ルーグを見据えて言うと、椅子から立ち上がり深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい……お詫びして済む問題でないけれど……」
「て、天使様!」
恐縮のあまり慌てて立ち上がろうとしたルーグは、いたた……と呟きながら腰をおさえた。思わずアンジェリークはルーグの元へ駆け寄るとその年老いて小さくなった体を支えた。
この老神官が生まれた時も覚えている。それどころか、彼が生まれる前のその親のことも、それより前のことも知っている。幼く可愛い子どもはあっという間に年老いていく。だがその歳月は彼らにとっては長い。だからいわば封印されてしまった“光の力”についての知識はすっかり風化してしまった。
それがアンジェリークにとって、ほんの数週間の話であったとしても。
「……光の力を望むと……何か支障がございましょうか、天使様」
「え、あ、いえ……気にしないで」
神官レイに言われ、顔に出てしまったのかな、とアンジェリークは慌てて笑顔を作る。エリューシオンに来る前に運悪く−−運悪くなんて言ったらそれこそなんと言って叱られるかわかったものではないが、光の守護聖ジュリアスに会ってしまった。そして案の定育成の依頼に来ないと注意された。
言われるまでもない。だが、あの厳しいまなざしに晒されるのが辛いのだ。持ち前の明るさも笑顔も、彼にはまったく通用しない。もっともっと高みをめざせと追い立てられる。どんなにがんばっても、自分では努力したつもりでも「まったくだめだ」と一蹴される。女王陛下のようになど、とてもなれない。そんなにいろいろ言われてもわからない。
そう思っているうちに自然と足が遠のいた。それどころか、エリューシオンで神官から「光の力をたくさんお願いします」と言われることすら苦痛になってしまった。だがエリューシオンの民はアンジェリークにとっては大切なものだ。なんとかして折り合いをつけなければならない。
レイはじっとアンジェリークを見つめた後、言った。
「天使様、申し訳ございませんが、光の力でなく風と炎の力をお願いしたく」
現金な話だが、とたんにほっとする自分がいる。だがそれではあまりにも露骨なので、少し表情を硬くして、探るようにアンジェリークは尋ねた。
「え……それは構わないけど……光の力は良いの?」
「はい」
微笑んでレイは言った。
「たぶん、その後だと思うんです。長老の人たち……と『光の力を望まないし存在を忘れるようにする』と決めたのは。だからルーグ、レイはあなたに『力は八つ』と教えた」
「……お言葉を返すようですが、天使様……」ルーグは何度もアンジェリークに頭を下げて再び椅子に深く腰掛けると言った。「父の言うように、私も思うのですよ。そのような力が存在したとしても、それが天使様を悲しませるようなものならば願いたくない、と」
アンジェリークは首を大きく横に振って異議を唱えようとしたが、ルーグは続けた。
「第一、望むほどの力でもなさそうです。それよりは従来どおりの力が満たされていれば良いのでは」
ルーグはじめ民たちにはわかっていない。彼らがぐるぐると同じ場所に居続けているのみならず、どんどん生きる意欲を失いつつあることに。だが、アンジェリークが思っている以上にそれは根深い。民たちが望まない力を与えることは、この今、ジュリアスに対し悪いことをしたと思うアンジェリークすら、本意ではない。だからこそ力のことを思い出し、理解してもらって、自ら望んでアンジェリークに育成依頼をしてほしいと思ったのだが……。
そのときだった。
「……きゃっ!」
小さく叫ぶとアンジェリークは右手で胸をおさえた。
「……天使様?」
ルーグが心配して声をかけたが、アンジェリークは胸をおさえたままだった。いきなりぎゅっと掴まれたような痛みを胸に感じる。この感覚には覚えがある。以前、エリューシオン全体が大きな嵐に壊されたことがあった。アンジェリークはそれを感じることはできた。だが、天使たる自分は導くものであって、起こってしまった事については、民たちが対処するしかない。自分ができることは、そのような民を励ますことだけだった。
そのときに似た痛みを、今再び感じている。
「……何か……エリューシオンに起こっている……」
そうアンジェリークが言ったとたん、神官の部屋に男が飛び込んできた。
「神官様、大変です!」
「これ、天使様の御前であるぞ、静かにせぬか!」
ルーグは言ったが、男は構わず叫んだ。
「馬たちの大群が森の東の集落になだれ込んだと知らせが……!」
「けが人は?」
ルーグより先にアンジェリークが男のほうを振り返って尋ねた。
「……幸い、たまたま食事時だったもんで、皆、家の中におりました……。ただ、畑があっという間に荒れ野に……」
「あの森には野生の馬がいるのですよ、天使様。時々弱ったものを捕らえて我らの足としますが……ふだんはとてもおとなしいのです」
ルーグはそう説明をしたが、どんどん声が低く落ち込んでいく。
「東の集落は……良い麦が多く収穫できる場所です……なんということだ……」
荒れ野になっただなんて……どんな数の馬が通り抜けたというのだろう。アンジェリークの胸の痛みはまだ続いている。
森から来た馬……森……。
アンジェリークは目を見開いた。
「森……ですって!」
そうアンジェリークが叫んだ瞬間、がしゃん、と食器の落ちて割れる音が戸口で響いた。アンジェリーク、ルーグ、そして男が一斉にその音のした方向を見た。それは、神官の部屋に茶を持ち込んできた件の女が食器を落とした音だった。
「神官様、大変ですわ!」アンジェリークが思っていたことを彼女が代弁した。「森へは、天使様の伴の方と一緒にルゥ様もいらしています!」
「な……なんじゃと……!」
「助けに行かなきゃ!」
叫ぶとアンジェリークはルーグを見た。だがルーグは頭を抱えるばかりだった。
「もうだめです、麦は荒らされ、ルゥがその馬たちが通ってきたに違いない森の中にいただなんて」
ルーグの言葉に愕然してアンジェリークは、救いを求めて知らせをもたらした男と、割れた食器を片付けている女を見た。だが男は肩を落として俯いたままであり、女はかけらを拾いながらべそべそと泣いていた。
『どうしたのだ、ここの民は。まるで進化を止めてしまったようだ』
ジュリアスの声が、アンジェリークの頭の中で響いた。
欠落してしまった、生きるための意欲−−生きることへの執着。
「ルーグ!」
その厳しい声に、はっとしてルーグはアンジェリークを見た。男と女もびくりとしてこちらを見た。
「……それでは私があなたたちに願います。ジュリアスとルゥを探しに行く人を募ってください。それと他に森に入っている人がいないかどうか確認してください」
「……は、はい!」
命じられて初めてルーグが動いた。
「森に詳しい者を何人か集めてこちらに来るよう……」
「いいえ、私も森へ行きます。馬場に集めて。それと誰か馬に乗れる人を」
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月