Holy and Bright
◆6
馬で駆けていた。目の前に金色の巻き毛が揺れている。
そしてときどき明るい笑い声が聞こえる。細い肩の向こう、髪が流れてちらりと薄紅色の唇が見える。
髪から良い香りがする。オリヴィエからのソープだと言っていたな。名前は何というのか、飛空都市に戻ったらオリヴィエに尋ねてみよう。
……そういえば、アンジェリークはどのような顔をしていただろう。
髪の合間から見える白いうなじを見つめつつ、はたとジュリアスは思いつく。
いつもこのうなじばかり。
ようやく顔をまともに見たような気がしたのは昨日の朝食の時。あの卵料理は旨かった。少し誉めただけなのに、花のように笑った−−。
……寒い。
寒くて目が覚めた。
いや、正確に言えば、気が付いたというべきかもしれない。まだ意識が混濁していて、ここはどこなのか、何故ここにいるのか、わかっていない。
……気を失っていたのか……。
「あうっ!」
起き上がろうとしてジュリアスは、右足の激痛に思わず声を上げた。そしてまるでその痛みを他に飛ばそうとするかのように右手で地面を叩いた。もちろんそのようなことをしても足の痛みが消えるはずもない。
その一方で、記憶は少しずつ蘇ってきた。ルゥを送り出し、なんとか急斜面を登り切ったところまで見届けたことは覚えている。だが、その後は……あれからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。あまりにも樹々は高く、枝葉は多く茂り、ジュリアスが倒れている場所は森の中でも窪地のようなものだろう、とても深い。
そして、暗い。
背中からじんわりと湿気を帯びた冷気が忍び寄る。それでなくても大量に血を流した後で冷えているのに−−ジュリアスの思考はそこで止まった。
ぬるりとした生温かな感触が足を伝う。
ぞくりとした。
血だ。
また流れ始めている。先ほど動いたのがまずかったらしい。
何とか、痛みが酷くならぬよう用心して体を起こし、ジュリアスは足を見た。靴が裂けて皮がペラペラとめくれており、赤く染まり凝固した上からまた新たな血が流れ出している。
ジュリアスは懸命に冷静さを取り戻そうとした。痛みを分析する。足の甲あたりが激しく傷ついているようだが、それはどちらかというと皮膚の裂けるような痛みであり、内部からというわけではないように思う。かなりきつい打撲傷ではあるが、骨が折れるまでには至っていない、とジュリアスは判断した。ふと思い出してルゥが裂いたシャツの切れ端を捜す。彼は裂いたシャツをジュリアスの頭の下に敷いてくれていた。少し体をよじってそのシャツに手を伸ばすことすら、今のジュリアスにはかなりの苦労を強いる行動だった。それでもどうにかこなし、布のかたまりの中から切れ端を抜いて、右足の膝下あたりを縛った。だがそこまでやり終えた時点でもうジュリアスの息はかなり上がってしまっていた。
そして再び、ばたりと仰向けに倒れた。
ルゥはどうしただろうか。
アウロラに蹴られたりすることはなかっただろうか。
それができたとして、アウロラを乗りこなし、無事に帰り着けただろうか。
そして、祖父の神官ルーグや……エリューシオンの天使たるアンジェリークに、森の異変を伝えられただろうか。火事であろうとなかろうと。
それから……アンジェリークは無事だろうか。あの馬の大群が襲来していなければ良いのだが。
ジュリアスはぎゅっと唇を噛んだ。
このような場所で、私はいったい何をしているのだ? アンジェリークを守る立場にいるはずの私が……この、光の守護聖たる私が、ただ倒れているだけだとは!
ジュリアスは仰向けに倒れたまま、右腕を空へ向かい掲げた。そしてしばらくそのままにしていたが、やがて力なく腕を降ろした。
「やはり……たんなる負傷者、というわけか」
声を出して言った後、心の中でジュリアスは言葉を継いだ。
……役立たずの、な。
ジュリアスは鼻で笑った。私がいなくてもエリューシオンは−−世の中は回る。力を発揮できない守護聖がいたところで所詮無駄なことだ。せめてサクリアを使い、光の力を発することができれば、居場所を知らせることもできたかもしれないが、それも今ではままならない。
空があるはずの方向を見ている。
だが空は見えない。
卵料理のことを誉めたとき、何故彼女は目を潤ませていたのだろう。
もしも嬉しかったのであれば……もっと誉めてやれば良かった。
いつも顔を見れば小言しか言わなかった。
女王になる身にしてはあまりにも危うく頼りない存在。
けれど宇宙は逼迫し、現在の女王陛下が必死に世界の崩壊を止めようとしているのを知っている身には、他の者たちのように良い顔ばかりはできなかった。
だがそれは詭弁に過ぎない。
私は、私を認めてもらいたいのに、私は他を認めない。他の……女王を。
今、こうして力を奪われ、用無き者として断じられているように、私を前にした彼女はいつも断罪されているように思っただろうか。
いや……。
今となってはもう、ただ単純な思いだけが残る。
もっと優しくすれば良かった。
もっと良いところを見つけて誉めてやりたかった。
もっと他愛もない話をしたかった。
もっと笑い合いたかった……昨日のように。
そして。
どんなに力をなくそうと、サクリアが失われようと、たとえ疎まれているとしても……側にいて守りたかった。
「すまない……」
言っても聞く相手のない−−詮無い言葉を呟き、ジュリアスは瞼を閉じた。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月