Holy and Bright
◆7
駆けてくる。
そして、ものすごい勢いでドアが開かれる。
「天使様!」
そう叫ぶように自分を呼んだルゥの体を見て、アンジェリークは震えた。
泥や草や葉、そして……たぶん血のついた腕。
どうして、いないの?
どこに、いるの?
……ジュリアス……!
ルゥの話はアンジェリークはもちろんのこと、祖父であり神官であるルーグや騒ぎに集まってきた民たちを震撼させた。
「森が山火事かもしれないじゃと!」
ルーグが叫んだ。ルゥはもどかしそうに頷いた。
「馬たちと、鳥の大群が一斉に森の中を移動していたんだ! それで、森の奥で何か起こっているかもしれないってジュリアスが」
それを聞いた瞬間、アンジェリークは昨日ジュリアスが言った言葉を思い出した。
『……人里とこの森との境界がまるでない』
『何か大きな災害が起こった場合……たとえば山火事や大水などが発生した場合、あの村落あたりはもろに被害を受けることになる』
……急がなきゃ! どうすればいいってジュリアスは言ってた?
『境界あたりを間引きする必要があるな……』
アンジェリークはルーグと民たちを見た。
「火事かどうかはわからないわ。でも起こってからじゃ遅いのよ! 大至急、森と集落の境界あたりの木を切って! このままじゃ、火が回ってきたらすぐに集落へ引火してしまうわ!」
だが皆、顔を見合わせるばかりで誰も動こうとしない。ルーグを見れば、彼は頭を抱えてしまっている。
ルーグの前に進み出るとアンジェリークは頭ごなしに叫んだ。
「ルーグ!」
一斉に民たちは静かになった。彼女が“天使様”であることはわかっている。だが金髪の巻き毛の可愛い少女が、民から崇められる神官を見据えて呼びつけたので驚いたらしい。
「は、はい、天使様!」
「私の願いを聞いてもらえないの?」
切り込むようにアンジェリークはルーグに詰め寄った。
「……そんな、滅相もない!」
慌てて首を振るとルーグは民のほうへ振り返った。
「すぐに男たちは斧を持て! 森と集落の境界あたりの樹々を切るのだ!」
「それと、半分は民を避難させて。森から少しでも離れるのよ」
「わかりました!」
ようやくルーグと民たちが動き始めた。その間もルゥはじりじりしていた。
そしてアンジェリークこそ、そうだった。
「ルゥ」
顧みてアンジェリークは、屈んで持っていたハンカチでルゥの顔についた泥を拭おうとしたが、真っ赤に染まった手でルゥはアンジェリークの手を掴んだ。
「……天使様、どうかジュリアスを助けてください……! 僕からも謝るから……」
「え?」
「ジュリアスが天使様を不愉快にさせたって言ってたんだ。で、『私の力は望まれていない』って」
先ほどまで……そして今も続く、たぶんエリューシオンの危機を告げるこの胸の痛みをはるかに越える痛みを、アンジェリークは感じた。
違う……違うのに!
かまわずルゥは必死の形相でまくし立てている。
「でも、ジュリアスは僕の命の恩人なんだ、僕を庇ったりしたから大怪我を……!」
「な……っ!」
足の力が抜けると思った。なのに不思議なことにアンジェリークは立っていた。
「……なに、伴の方がおまえを?」
側でルーグが目を見開いたのも見えた。何故こんなことに気づくのだろう。
「足から血がすごく出てて動けないんだ、もしも山火事だったら……ううん、山火事以前に、あんな量の血を流してたら……ジュリアス……死んじゃうよ」
遠くのほうで言われたような気がしたが、実際には言ったルゥ本人はアンジェリークの目の前にいて、もう涙ぐんでしまっている。
掴まれた腕をぐいと掴み返してアンジェリークはルゥの体を引き寄せると、腕の中に抱きしめた。小さな肩が揺れた。よほどがまんして来たのだろう。恐さや痛みや……そしてジュリアスを置いてきてしまった後悔の念を。
「お願いします……お願いします、天使様!」
腕の中で訴え続けたルゥは、懸命にもがいてアンジェリークから少し身を離し、嗚咽をなんとか押さえ込みつつ言った。
「ジュリアスが天使様に伝えてほしいって……」
どきりとしてアンジェリークはルゥを見た。
「『すまなかった』って……だから……!」
アンジェリークは悲鳴をあげそうになった。
違う! 違う! 違う!
あなたじゃない!
謝るのはあなたじゃない!
「……天使様……。だめ……ですか……? ジュリアスを許せない……?」
反応の無さに不安になってルゥがおずおずと問いかけたものの、途中で言葉を止めた。
「……天使様……」
泣いてもどうにもならないのに……悔しい……!
ぽろぽろと涙をこぼすアンジェリークにかえって興奮状態がおさまってしまったのか、ルゥは少し穏やかになって言った。
「天使様……、僕が行ってしまう前にジュリアス……こうやったんです」
アンジェリークの額に指を置くと唱えるようにルゥは言った。
「『ルゥ、おまえに……光の祝福を』って……そうしたら何となくがんばらなきゃって思って」
アンジェリークは言われてルゥの額に目を向けた。そしてはっとしてその額を凝視した。
「……天使様?」
なんてこと……!
アンジェリークは声も出せずにルゥの額を見つめていたが、手にしていたハンカチで自分の涙を拭うと、ルゥに向かってにっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ」
ぱぁっとルゥの顔が明るくなる。
「よくがんばったわね、ルゥ……でももう少し私に力を貸してほしいの」
「はい!」
「では、私に願って」
「え?」
「私に」
立ち上がるとアンジェリークは、ルゥの額のあたりを指でなぞった。
「光の力を」
「……天使……様?」
訳がわからず、ルゥは呆然として呟くように問うた。だがアンジェリークは依然として微笑んだままだった。
「あなたの願いが、私の望みになる。そして」
指先にアンジェリークは神経を集中させた。感じる……微かにだけれど。
「……彼の力になる」
「……彼?」
「そう」
また屈むと、アンジェリークはにっこりと笑った。
「お裾分け……してね」
−−ジュリアスの……光の力を。
そしてアンジェリークはルゥの額に口づけた。
「わ、わ、天使様っ!」
狼狽えているルゥをルーグは呆気に取られて見ていたが、やがて苦笑すると、ルゥから離れて鞄の中を見ているアンジェリークに声を掛けた。
「天使様。たった今、私は神官の位をルゥに譲ります」
「お……おじいちゃん!」
まだアンジェリークから受けた口づけの衝撃から立ち直れず、顔を真っ赤にしたルゥはまた新たな驚きが加わって大声を出した。
「もちろん、まだ儂ががっちりと補佐につくがの」
「そう……」
アンジェリークは微笑んだ後、真顔になってルゥを見た。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月