Holy and Bright
◆7
行ってしまったアンジェリークの足音は軽い。
妙にそれがおかしくて、ジュリアスは思わず微笑んだ。だがすぐに真顔に戻すと再び枕に頭を預けた。
何だか今……私らしからぬことをしなかったか?
たった今やらかしたことを思い返し、ジュリアスは天井を見ながら顔をしかめた。
少し前−−昨日までは、アンジェリークが泣くのを見ただけで、またやってしまった、またきつく言ってしまったと後悔ばかりしていた。もちろん今は別にアンジェリークに対し何か厳しいことを言ったわけではない。それなのに彼女はジュリアスを見て泣いた。
……たぶん、私の具合はあまり良くないのだろう。
ふぅ、と嘆息して負傷した足のある方向を眺める。シーツに隠れたそれは、先ほど動いたときには少し引きつるように痛んだが、今こうしてじっとしている段にはさほど苦痛ではない。それがもちろん痛み止めの薬が効いているからだということは、ジュリアスにもよくわかる。
大局的に考えれば−−ルヴァの言う、“女王陛下をお守りする守護聖の首座”という立場を考えれば−−ここは当然飛空都市に戻り、一刻も早く適切な治療を受けるべきなのだ。だが、どうしてもこの、エリューシオンに出張しての試験を全うしなければならない、とジュリアスは思っていた。アンジェリークに、自分のせいで銀色のボタンを押させてしまったことは痛恨の失敗だった。事情が事情とはいえ、あまりに無謀なことをしすぎた。
それで、ルヴァとパスハにはあのように、とても見え透いた嘘の報告をした。
……いったい、どういう理由があればあの森へわざわざ銀色のボタンの箱を持ってきて、うっかり踏むことがあるのか……?
我ながら実に愚かな言い草だ。もう少しましな言い方もあっただろうに。ジュリアスは鼻で笑った。
それにしても。
あの翼。
ジュリアスは天井に、遊星盤から自分を見下ろすアンジェリークの姿を映して思い出してみた。
体中を巡る声。
こうして横たえている今も充分に感じられる自分のサクリア。
そして、自分はまるであの、熱を出して寝込んだときの子どものように助けられ、なだめられ、癒された。
正直なところ、あれほどの力量があるとは思えなかった。
たぶん、彼女は。
そこまではジュリアスも納得している。
だが。
何故、あの娘はすぐに私の思いをひっくり返してしまうのだろう。女王として敬い、尊ぼうと思った瞬間、普通の少女に戻る。私を心配して涙する……。
ジュリアスは、ぎゅっと目を閉じた。
聖なる眩い存在−−女王となる身にはそれだけで充分なのに、彼女についてはもうひとつ加わってしまう。
愛おしくなったのだ。
思わず腕を引いて抱き締めたくなるほどに。
山火事の処理に民たちは奔走していたので、台所には大したものは残っていなかった。それでもアンジェリークはてきぱきと残り物を上手く使って温かなスープをこしらえた。喉ごしに心地よく、ジュリアスは思いの外よく食べた。
アンジェリークはにこにことしてその様子を見ていた。
「……どうした」
「よく食べ、よく寝て、しっかり治してくださいね」
「……ああ」
横で食べているところを見守られることなど滅多にないので、ジュリアスは少し頬を紅潮させながらスプーンを口に運んだ。
「でないと、明日こそ、飛空都市に返してしまいますからね」
その言葉にジュリアスは思わず飲みかけのスープを吹きそうになり、あわててナプキンで口を押さえた。
「アンジェリ……」
「だって」
椅子から立ち上がるとアンジェリークは仁王立ちになってベッドの中のジュリアスを見下ろした。
「ジュリアス……あなたは私の言うことを聞いてくれませんでしたからね」
ジュリアスはバツの悪そうな顔をした。彼の信条としては、女王は絶対であり、ここエリューシオンでのいわば女王たる身であるアンジェリークの命令こそ絶対的なものであるはずだった。それを無視したような格好で今、ジュリアスはここに居る。
ジュリアスの様子に苦笑するとアンジェリークは、再び椅子に座りジュリアスの顔を見つめた。
「でも本当に、明日の朝に具合が悪いようなら、今度こそ帰ってもらいます。だって」言葉を切り、小さく息を吸うとアンジェリークは続けた。「あなたは私の、大切な光の守護聖ですから」
その言葉にジュリアスは息をのんだ。何か言わなければ、と思ったときにはもう、アンジェリークが深々と頭を下げていた。
「……アンジェリーク……?」
「昨日のこと……いいえ、今までのこと……すみませんでした」
ジュリアスは目を瞠った。
「こんな最低な女王候補で、しかもボタンも押したのに……庇っていただいて」
「それは違う」アンジェリークの言葉を遮り、ジュリアスが続ける。「おまえがボタンを押したのは私の所為だ。私が責められこそすれ、おまえが謝ることではない」
「それがそうであったとしても……」
そう言うとアンジェリークはジュリアスの前で跪いた。
「光の力の存在を、もう少しで消し去ってしまうところ……でした、私」
肩が震えている。
「どんなにお詫びしても、許してはいただけないことだと思います……これだけで充分、私は女王試験を辞退すべきだと思って」
「それはならぬ」
強い調子でジュリアスが言下に否定した。
「ジュリア……」
「おまえは何を言っているのだ。いったい、何人の者がおまえの背の翼を見たと思う?」
アンジェリークは目を大きく見開いた。
「……翼……?」
その様子にジュリアスのほうが呆気にとられた。
……自覚していなかったのか……!
「……とにかく……試験を辞退することは、このジュリアスが許さぬ。与えられた使命は全うしろ。良いな、アンジェリーク」
「でも」
「『でも』は、これに限っては聞く耳持たぬ」
きっぱり言い放つとジュリアスは、体を再びベッドに倒した。
「わかった。私はしっかり眠り、明日に備える。だからおまえも安心して今日は休むが良い」
呆然としてアンジェリークはジュリアスを見た。ジュリアスときたらもう目を閉じ、掌を胸のあたりで組んで寝る体勢を作っている。
……可愛い。
くす、と笑ってアンジェリークはジュリアスを見る。
優しい人。
そして……とっても強情っぱり、ね。
アンジェリークは立ち上がると、組まれた掌にそっと自分の手を置いた。再びジュリアスの目が開かれる。
蒼い瞳がこちらを見つめる。何の嘘もない澄み切った蒼。
どうしてこれが恐かったのだろう?
恐かったのは……私にそう思わせる引け目があったから……よね。
「眠る前に、お薬を飲みましょうね」
ベッド脇の小机に置いてある水差しからグラスへ水を注ぐとアンジェリークは、ルヴァから渡された薬と共にジュリアスへ差し出した。体を起こし、おとなしく薬を飲むジュリアスをアンジェリークは目を細めて見ていたが、やがてぽつりと言った。
「……わかりました。女王試験を辞退しません」
「それで良い」
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月