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飛空都市の八月
飛空都市の八月
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Holy and Bright

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◆8

 暖かい。
 微かな意識の中で、ジュリアスはぼんやりと思った。
 暖かくて柔らかい。そしてとても心地よい。あの、寒くてたまらなかった森の中を思うと雲泥の差だ。どくどくと血が流れ、冷え切った足がとくに−−
 カッと目を見開き、ジュリアスは暗い部屋の中で再度足の感覚を確かめた。
 やはり暖かい。
 何かがジュリアスの足に触れている。声を上げかけてジュリアスは、それをごくりと呑み込んだ。
 何かいる。
 そこでジュリアスはゆっくりと首だけを持ち上げて足元を見た。仄かに灯るランプの光による影が、ベッドからすぐ迫る壁に映っている。暗がりに慣れた目に、その影の正体が徐々に見えてきた。
 ……アンジェリーク!
 見るとアンジェリークは、ジュリアスの足元に突っ伏して眠ってしまっているようだ。体にかけられているシーツのそこだけが捲れて、ジュリアスの素足が見えている。アンジェリークの掌は、その足の甲の負傷した箇所に乗せられている。暖かく柔らかな感触は彼女の掌だったのだ。
 足の指が眠る彼女の額に擦れるか否かの場所だ。むやみに足を動かしたりしなくて何よりだった。もしも動かしていたら、ジュリアスはアンジェリークの顔を蹴ってしまっていたかもしれない。
 足を動かさぬようジュリアスは、そろりと腹筋だけで起き上がった。
 「……何を……しているのだ……!」
 小さくではあったが、ジュリアスは声を出して呟いた。その声は震え、掠れきっている。それが起き抜けによるものだけでないことを、ジュリアスはわかっている。
 思わずジュリアスは、顔を掌で覆った。


 こうして目覚める少し前、夢うつつで足元に何かを感じてやはり目覚めた。アンジェリークは微笑んでこちらを見ていた。傷口を覆うシールドや薬の類が小机の上にある。
 「起こしちゃいました? すみません」
 「……アンジェリーク……おまえこそ、起きていたのか……?」
 「ええ」にっこり笑うとアンジェリークは続けた。「ルヴァ様が、夜中に一度は取り替えるようにとおっしゃっていたので」
 そして少し表情を引き締めた。
 「シールドを外します。がまんしてくださいね」
 ジュリアスの足にアンジェリークの指先が触れる。そのとたん、ジュリアスの頭に血が上った。
 「待て」起き上がるとジュリアスは慌てて声をかけた。「そのようなことは私がやる。おまえは早く寝るがよい」
 だがアンジェリークはそれには応えず、シールドの端を持ち、一気に外した。
 「うっ!」
 痛みで声が漏れる。だがそれよりもジュリアスは、自分の足をエリューシオンの天使たる身であるアンジェリークに触れられることや、このように無様な姿を見せることの方がよほど堪えた。
 「ごめんなさい。でももうちょっと我慢して」
 アンジェリークはそう言ってジュリアスを見つめながら、痛みを抑えようとするかの如く、両方の掌で傷口に触れぬようきゅっとジュリアスの足を握った。ジュリアスは思わずアンジェリークから目を逸らした。まるで、そうでもしなければならないかのように。
 その間にもどうやら薬を出しているらしいアンジェリークの気配がしている。そしてひんやりとしたものがぺたりと足の甲に貼られた。
 「……っ!」
 「はい、もう大丈夫」
 明るい調子でアンジェリークが言った。そして水差しからグラスに水を注ぐと、また食後のときのように飲み薬と共に渡された。
 「起きちゃったのなら、ちょうど良かった。そろそろ痛み止めが切れてしまうかとヒヤヒヤしていたんです。飲んでください」
 もうまるきりアンジェリークに言われるままにジュリアスは薬を飲んだ。そしてグラスを受け取るとアンジェリークはやんわりとジュリアスの肩を押して、横たえるよう促した。
 「さあ、寝ましょうね」
 そう言ってまた挨拶代わりに額へ口づけしようとしたアンジェリークの腕を、ジュリアスは掴んで止めた。
 「わかった、寝るから……頼むからおまえも寝てくれ」
 「ええ、寝ますよ」アンジェリークは笑った。「ジュリアスが寝てくれたら、ね」
 アンジェリークは、今度は額ではなくジュリアスの瞼に口づけた。
 「あ、ジュリアス……赤くなってる?」くすくすと笑ってアンジェリークは言う。「もしかして、照れてます?」
 「……馬鹿を申すな。もう寝る」
 茶化されてジュリアスは不愉快そうにして無理矢理目を閉じた。まだ微かに笑う声がする。ジュリアスはむっとした表情を作ってみせながらも目を瞑ったまま言った。
 「……アンジェリーク」
 「はい?」
 「……感謝する」
 答えは聞こえなかった。その代わり、再度もう片方の瞼に口づけされた。
 「お休みなさい、ジュリアス」
 「……ああ」
 そしてあっという間に眠りに落ちた。安堵しきっていたせいもあるだろうけれど。だからその後の記憶は途切れている。それどころか、受けた瞼への口づけすら夢の中の出来事のような気がする。
 だが、今は違う。
 先程飲んだ痛み止めは、たぶんかなり強力な効き目があるのだろう、確かに頭はふわふわとしてはいる。けれど、この光景は紛れもなく現実だ。
 アンジェリークは私の足にずっと触れていた。
 何故、そこまでできるのだ?
 手の甲でぐいと目元を拭うとジュリアスは、負傷していない方の足を立てて、ぐっと起き上がると、前屈みになって負傷した箇所に乗せられたアンジェリークの手を動かそうとして目を瞠った。
 傷が……ない。
 そこにはシールドがあるだけだ。それは透明なので、長々とした傷が見えるはずだった。ぎゅっと目を閉じてジュリアスは再び目を開いた。見間違いだと思ったからだ。しかし、再度見てもやはりあったはずの……先程シールドを張り替える際伴った痛みの元が、ない。
 エリューシオンの天使は、微かに笑みを浮かべて眠っている。
 起こさぬよう恐る恐る指に触れ、一本ずつ緩めていって、ジュリアスはその掌から自分の足を抜いた。シールドを外す。塗り薬が残っているだけで、やはり傷はない。
 戦慄。
 いや、その事実はもう戦慄を通り越し、すさまじい畏怖となってジュリアスを襲った。紛れもない。それどころか、今まで見たことのないほどの強大な力を持つ−−女王。
 ジュリアスは体を引き、ベッドに突っ伏し眠る少女に向かい、額をこすりつけるようにして平伏した。

作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月