Holy and Bright
chapter 5
◆1
床に置かれた四つ目の鞄をぼんやりと眺めつつ、アンジェリークは床にしゃがみ込んでいた。相変わらずぬる目で水量の少ないシャワーを浴びた後、バスタオルを巻きつけただけの姿でそこにいる。
いよいよ明朝、エリューシオンを発ち、飛空都市に戻る。そのための荷物の整理は済んでしまっていた。四つ目のそれには、ルゥを始めとする、エリューシオン滞在中に関わった民たちからの心からの贈り物が入っている。先程まで、神官の館は山火事で沈み込んだ日以来の活気のある夜だった。天使様の送別会を、苦しい生活の中から彼らは催してくれた。遠慮すべきだと思ったが、ジュリアスが黙って首を横に振った。その目は、彼らの心遣いをありがたく頂戴すべきだと言っていた。何故なら、次はもうないからだ。たとえアンジェリークがまだ女王候補であったとしても、ルゥはもう子どものルゥではない。大人になり、結婚しているか、あるいは孫ができているか……それほどに時間の格差はある。だからほとんど永遠の別れと言っても良いほどだった。
しかし、“永遠の別れ”となると、アンジェリークの前にはそれとは別の、大きな問題がごろりと横たわっている。
女王試験を辞退する、ということだ。
エリューシオンの民には知らせないでおこうと思う。後でルゥだけにはきちんと話をしたいとは考えていたが。だが、それよりも難問は、これをどうジュリアスに切り出すか、である。
いっそ飛空都市に戻ってから、直接ディアに告げるということも考えたが、それはどうにもジュリアスをないがしろにしているような気がした。これほど面倒をかけた相手に何も告げず、いきなり辞退すると言って去ってしまっても良いものかどうか。
かと言って、ジュリアスがどういう態度を取るのか考えただけで、アンジェリークは憂鬱になった。アンジェリーク自身、別れたくなどなかった。
あの日……重傷のジュリアスを看病した日以来−−。
目覚めたとき、一瞬アンジェリークは自分がどこにいるのかまるでわかっていなかった。窓の外から仄かに光が差し込んでいるように思ったとき、体の片方が妙に暖かいことに気づいた。
ふとその暖かい方向を見てアンジェリークはぎょっとした。
…………ジュ……リアス!
驚きのあまり声も出なかったが、それでも思わず目は懸命に状況を知ろうと動いた。ジュリアスは本当に小さく寝息を立て、アンジェリークと少し距離を置いて眠っている。
だが同じベッドの上だ。しかも頭を並べている……ただしアンジェリークに枕はない。にも関わらず心地よかったのは−−
腕枕……されてる……
衝撃のせいか、昨晩の記憶が一挙に蘇る。看病のため徹夜するのだ、と決意したはずだ。ジュリアスの傷が癒えるよう念じるために、傷のある足を手で覆ったことも覚えている。
……その前にひっそりとやってしまったことも。
思い出したとたん、一気に頬が紅潮する。
だが……そんな記憶よりも、問題なのは今のこの状況であり、ジュリアスの具合だ。
ジュリアスを起こさぬよう、そろりとベッドからにじり出たアンジェリークは、何とはなしに自分の姿を確かめた。服装は寝癖のせいで布地が皺だらけになっている以外、別段何も乱れはない。そんなことを確認してからアンジェリークは、一体自分が何を気にして調べているのかと思い、赤面した。
改めてジュリアスを見る。そして、いたってその顔色の良いことに気づいてアンジェリークは安堵すると同時に首を捻った。
自分がベッドに横たわっていたということは……そうさせたのはジュリアスしかいない。彼がベッドの端に寄って眠っていることからして間違いない。だが、彼は重傷を負っていた。いくら彼が男だと言っても、あのような傷を負った体で、たぶんベッドの縁で眠りこけていた自分を引き上げ、寝かせることなどできるだろうか?
それにしても本当に顔色が良い。もちろんそれは歓迎すべきことなのだが、あまりにも夜中の時との差が激しい。
薬が効いたのかなぁ。サクリアが戻ったら体調も戻るだろうとルヴァ様もおっしゃっていたし……。
身を乗り出して顔を覗き込む。明るくなりつつある部屋の中で、穏やかな表情が浮かび上がる。
素敵、光の守護聖の寝顔を拝めるなんて、私の特権、ね。
それと……。
くす、と笑ってアンジェリークはゆっくりとベッドに膝をついて乗ると、ジュリアスを起こさぬよう唇に口づけた。昨晩よりも少し長くその唇に止まってみる。
……この秘密も、私だけのもの。
その後、ジュリアスの足下のシーツを捲ったアンジェリークは思わず声を上げてしまった。その声に驚いて目覚めたジュリアスは、てっきりアンジェリークが、ジュリアスが何かしたと誤解したのではと思ったらしく、いきなり「私は何もしていないぞ!」と叫んだ。
「……ち、違いますっ! そんなこと……わかってますっ!」
むしろ自分の方に引け目のあるアンジェリークはその思いを隠すように叫ぶと、ジュリアスの足を指さした。
「な……何でシールドがない……じゃなくて、傷が消えているんですかっ!」
その言葉にジュリアスは動きを止めた。
「ジュリアス……?」
ジュリアスは何か呟いたようだった。だがアンジェリークにはそれが聞こえなかった。
「何ですって?」
ジュリアスは苦笑すると、立ちつくしているアンジェリークに手を差し伸べた。
「おまえの看病の賜だ。礼を言う、アンジェリーク」
その言葉に、アンジェリークは首を横に振った。
「何もしていないです、それどころか私……寝ちゃったみたいで……ごめんなさい……」
それにはジュリアスも首を横に振って応えた。
「おまえの部屋へ抱き上げて行くには体力がなかった。薬が効いてふらふらだったのでな」肩をすくめるとジュリアスは続ける。「起こしたりしたらまた『徹夜する』と言い張りそうであったし、かと言って」
ジュリアスの足下、ベッド際の床を指さしてジュリアスは言う。
「そこで座り込んだまま寝かせるわけにもいかなかったので……私の横に寝させた」
アンジェリークはジュリアスをじっと見つめた。ジュリアスは表情を変えることなくアンジェリークが何か言うのを待っているようだ。
聞けるものなら聞いてみたいことがある。
……私と同じベッドに寝ても、何も?
だがそのようなことを聞けるはずもない。
この、妙な落胆は何なんだろう?
本当はわかっている。自分がただの、面倒を起こした女王候補の“女の子”に過ぎないということを。
……私、いったい何を期待しているんだろう?
「……あの」
アンジェリークが言葉を発したせいか、ジュリアスが少し表情を緩めた。
「何だ?」
「肩……こってません?」
何を言われたのか一瞬わからなかったらしいジュリアスは、ああ、と腕枕をしていた方の腕を軽く振って見せた。
「少しだるいが、別段どうということもない。心配するな」
だがアンジェリークは黙っていなかった。先程の、妙な落胆の気持ちを払拭するかのように勢いづいて言った。
「肩揉みします! ほら、私、得意だって言ってましたでしょう?」
「……夜伽ではなくて、か?」
ふっ、と笑ってジュリアスが返す。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月