Holy and Bright
◆3
ぼんやりと床に座っていたアンジェリークは、微かに聞こえる水音にハッとした。
「……いっけない……!」
……私ってば、考え込んだまま先にシャワー、浴びちゃった……! いつもならジュリアスに先に入ってもらうのに……。
がっくりと肩を落とし、アンジェリークはため息をつく。よりによって最後の最後で、気の利かない奴と思われただろうなぁ、と思うと落ち込みもいや増した。
……ということは、今、部屋に行ってもだめだってことよね……。
毎晩、アンジェリークはシャワーを浴びた後ジュリアスの部屋に行って、彼が眠りにつくまで見守るのが日課になっている。病み上がりのくせにまるで休もうとしないジュリアスを抑制することが目的なのだが、アンジェリークにとってはもっぱら楽しみな日課と化している……光の守護聖の寝顔を眺められる、という。
だが、それも今晩で終わりだ。
ジュリアスとはすっかり打ち解けられている……とアンジェリークは思っている。あんな酷いことを言い、あんな酷い仕打ちをしたにも関わらず、ジュリアスは優しい。
だがそう思うたび、アンジェリークは自分に向かい言い聞かせる。
勘違いしてはいけない……決して。ジュリアスが優しいのは、私が女王候補−−ジュリアスがもっとも敬愛する存在である女王の、候補だからだと。
なのに一方で裏腹なことにアンジェリークは、その、女王候補であるということを利用している。ジュリアスの寝顔が見られるというだけではない。もちろん、うとうとしたところで額や瞼に口づけてお休みと挨拶することは、ジュリアスが起きている間、もうとっくに実行していた。だが、それ以上のこと−−その唇に口づけること−−は、決して知られてはいけない密かな楽しみであり、苦しみでもあった。
眠っている彼に口づけながら、アンジェリークはジュリアスが、いっそ目覚めてくれないかと思うこともある。当然ながら反応がなくてつまらないのだ。驚くか、嫌悪するか、あるいは−−どんどん募っていく自分の恋慕の思いと調子の良い欲望にアンジェリーク自身、苦笑してしまう。
ばかね。
ジュリアスに知られたら、今度こそ私、本当に嫌われる。女王候補という立場をなんと心得ているかって……怒鳴られることすら、ないかもしれない。
……ああもう……今夜しか、ないなんて。
アンジェリークはおずおずと、ベッドの上に置いている封筒を見た。それは、ロザリアからの贈り物−−『何かあってからでは遅いですからね。淑女たるものいつ、どんな時でも身だしなみを整えておかなくては』と言われて渡された物だ。
床から立ち上がるとアンジェリークは、その封筒の中のものを手に取った。これを身につけたところで、別段外見は変わりはない。けれど、アンジェリーク自身の心根は大きく変わってしまう。
一体、何があるって言うのと、このエリューシオンに来た日に思った。だがまさか、このような思いでこの贈り物に触れることになるとは思わなかった。ロザリアの思いやりに感謝すべきか、それとも……よくも崖っぷちから、どん、と背を押してくれたわねと恨むべきか。
何を言うの。
アンジェリークは肩をすくめた。ロザリアの所為にすることではない。
そう……最後の最後まで、私は良い女王候補ではなかった。そしてこれからもっと悪くなる。これからジュリアスに告げなければならない。女王候補を辞退すると。そして……。
鼓動が激しくなった。
水音が続いている。まだジュリアスはシャワーを浴びている。シャワーを終えるまでの間に何とかして心を落ち着かせなくては。
そこまで思ってアンジェリークは、ぽん、と手を打った。
そうだ、クラヴィス様からもらった蝋燭がある。灯したときの香りでよく眠れるからと言って渡されたものだったから、きっと穏やかな気持ちになれるに違いない。
整理した鞄の中からがさがさと探る。細長い箱を取り出すとアンジェリークは、その包みを解いた。
細い枝のような蝋燭が箱にきっちり詰められている。上品で端正な感じのする香りだ。もっとも、アンジェリークはポプリぐらいならともかく香りのある蝋燭など使ってみたことがなかったので、今ひとつやり方がわからなかった。
急いで落ち着かないと……ちょっと多めに点けてみようかな。
数本握るとアンジェリークは、部屋の奥の棚にある蝋燭立てを出して、部屋に備え付けられたランプにその中の一本を差し入れて火を点けると、いくつか他の蝋燭にも点けていった。
「うわ……いい香り……」
それに、火が灯る様子も綺麗だ。すぅっと気持ちが落ち着く。これならきちんと話ができるかもしれない……ついでに私の舞い上がった頭も、どうしようもない愚かな望みも治まるかもしれない。
アンジェリークはベッドに座り、ふぅ、と深呼吸をした。
本音を言えば……恐い。
巻いたバスタオルを解いて側にあった椅子に引っ掛けると、アンジェリークは自分の胸元や腰まわりを見てため息をつく。
まだまだ子どもだ、私は。だからジュリアスは平気であの夜も私の横で寝ていたんだわ。それなのに私ってば……望みだけは一人前。
背の方にあるシーツを肩から被ってアンジェリークは、ふとベッド際の小机の上にある件の辞書を見た。とうとうあの初日の夜以来ずっとあそこに置いたままになっている。あの辞書が来た時のことを思い出してアンジェリークはふふ、と笑った。こんなことすら……自分の無知がもとで大騒ぎになったことすら……今となってはアンジェリークにとって、とても幸せな思い出だ。
……夜伽を務めなさい、か。
身を伸ばしてアンジェリークは、辞書を引き寄せようとして手に持ったままのロザリアからの贈り物……シルクのショーツを見て吹き出した。吹き出して笑ったはずなのに……何故か涙がこぼれ落ちた。
今もし私が……意味をよく理解している私がそう言ったら……どうするだろう、ジュリアスは。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月