Holy and Bright
◆5
遠く、微かに鳥の鳴く声が聞こえる。そして閉じた瞼に光がすぅっと差し込んでくる。アンジェリークは、うう、と小さく声を漏らすとゆるゆると目を開いた。
部屋にはまだ弱いものの日の光が入ってきている。最初に見た天井から光の入る元−−窓へと少し眩しげにしながら眺めていく。
窓が……近い?
目を、窓から壁へ移動させる。こんなに壁って迫ってきていたっけ……?
それに、なんとなく部屋の雰囲気が……違う……?
「目覚めたか」
後ろから声がした。
聞き慣れた声−−けれど、寝室で聞くはずのない声……!
「えええっ?」
がばっと起き上がろうとしたアンジェリークは、肩をそっと押さえられた。
「ゆっくりと……そうだな……シーツを体に巻き付けながら起き上がってくれ」
一体、ジュリアスが何を言っているのかよくわからなかった。何故シーツを巻き付けろと言うんだろう、と思ってアンジェリークはふと気づいた。
……シーツが直接肌に……触れて……る?
「え、何これ! どうして……っ!」
思わずアンジェリークはジュリアスを見上げた。そのジュリアスはあっさりとした白いシャツを着ていた。珍しく襟元がはだけている。彼は守護聖以外の服でもおおよそ襟はきっちり留めていたのだが。
……何を思っているのだろう。そんなことを見ている場合ではないのに。
「あの」
「良いか、アンジェリーク」
どうやら部屋の隅に置いていたらしい椅子を持ってくるとジュリアスは、ベッド際にそれを移動させて座り、同じくベッド際にある小机の上の水差しからグラスへ水を注ぐと、グラスをすっとアンジェリークの目の前に差し出した。
「こうして私がおまえを叱るのもこれが最後だ」
その言葉にアンジェリークの顔はざっと青ざめた。
……最後。
最後……ですって?
とりあえず用心深く体を起こし、シーツをぎゅっと胸元に巻き付けてはみたが、直接シーツに触れていたせいか突出した乳首が目立つ。かといって緩めると乳房がほとんど丸見えになる。水は飲みたいもののどうすれば良いかわからず、アンジェリークは思わずシーツの中に潜り込んだ。
「良い」
そう言うとジュリアスはグラスを小机に置き、椅子から立ち上がった。びくりと震えてアンジェリークはジュリアスを見る。ゆっくりとした動きでジュリアスはアンジェリークの首もとに手を通しそれを引き上げると、むき出しになった背中を軽く押した。
「おまえには以前、このように背中を見て泣かれたな」
苦笑しながらジュリアスはアンジェリークの背を片手で支えたまま、もう片方の手を伸ばし、小机上のグラスを持つとアンジェリークに渡した。
そうだった。だが今はあのとき以上に露出が激しい状態なのに、何故か嫌だとは思わなかった。ジュリアスの動きがあまりに自然で……しかも優雅だったせいかもしれない。
それにしても、どう言えば……どういう表情をすれば良いのかわからないまま、アンジェリークは小刻みに震えつつ受け取ったグラスの水をこくりと飲んだ。冷たくて体に染み渡る。どうにか少し、落ち着くことができたような気がした。
飲み干したところで、自分が小机にグラスを置こうとする前に、ジュリアスがそれを受け取り、置いた。
叱ろうとしているにしては、酷く優しい。
一体、私……何をしたの?
これが最後だ、と言った……。
「思い出せぬか?」
ジュリアスのその一言で、アンジェリークの頭は再び混乱をきたした。
私が真っ裸で……朝……思い出す……何を?
ジュリアスの手が背から外された。彼は再び椅子に座った。
「あの私……何を……したんです……か?」
シーツの中でアンジェリークはぎゅっと体を縮こませつつ尋ねた。シーツをかけていても、ジュリアスにはすべて見られているような気がしたからだ。
「ああいう蝋燭は一本だけにしろ」
「え?」
「何本も薫らせるな」
蝋燭? 何本も?
「……昏倒してしまうほど使うな、ということだ」
「コントウ?」
くす、と笑うとジュリアスは言った。
「“昏倒”とは、目が眩んで倒れる、ということだ……そうだ。今のように、わからないことがあったらこれからはすぐ私に聞くように。良いな」
「昏倒……」
口の中で転がすように呟いたアンジェリークは、やがて昨晩のことを少しずつ思い出し始めた。
蝋燭は……クラヴィスからの贈り物。そうだ、何本か灯した。いい香りで、輝きも綺麗だった。あれで私は気持ちが落ち着いて……落ち着いて、ふとたまたまそこにあった辞書を手に取ろうとして……。
記憶がない。
その後から、今、ここに至るまでの記憶が全く、ない。
「あの」呆けている顔を努力して引き締め、多少胸が見えようとかまわずアンジェリークは起き上がるとジュリアスを見た。「教えてください。いったい私、辞書を取ろうとして倒れた後、どうしてたんですか? ジュリアス……もしかして私、とてもあなたに迷惑を」
言いかけてハッとした。
起き上がる拍子にふわりと匂ったこの香りは、あの蝋燭のものではない。あんなに匂っていたのに……今はシャワーの時に使う、オリヴィエからのソープセットの香り。
それにこの部屋は……ジュリアスの部屋だ。
混乱する。
「あ、あの、あの……ま、まさ……か」
ジュリアスは黙ったまま、細身のパンツに包まれた足を組み、持ち上がった膝に肘を置いてその掌で顎を軽く支えた。狼狽えている頭の片隅で、何故かジュリアスの動きに見惚れている。何だかずいぶん様子が違う。どうしてこんなに穏やかで静かなのだろう。いつものようなどこか尖ったようなところが全く感じられない。
「……おまえの部屋は、あの鬱陶しい香りで充満している。今もなお、な」
微かに笑う。それがあまりに柔らかで、酷い話を聞いているにも関わらずアンジェリークは一瞬問い掛けに間を空けてしまったほどだった。
それでも、たぶん……今はとんでもない答えを聞きかけている……私。
「じゃあ、あの……あの……」
後はもう口がぱくぱくと動くだけで声にならない。私は……あのとき、裸だった。裸のまま倒れて……今も……裸で……。
「ああ……じゃあ、あの女の人が私を洗ってくれた……んですよ……ね?」
一応、そう言ってみた。世話係の彼女なら、同じ女同士だ……し。けれどそう言いつつも虚しい気がした。案の定、ジュリアスはふぅと小さくため息をついてみせただけだった。
「ジュリアス、あの……」
顎に掌を当てたまま、笑みを収めてジュリアスは静かに言った。
「私が、おまえの体を洗った」
思わずひく、とアンジェリークの喉が鳴った。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月