Holy and Bright
◆7
ジュリアスが……私の体を……洗った?
言葉にならないのでアンジェリークは、代わりに頭で何度も反芻させてみた。
「起き上がれるか?……もうそろそろ飛空都市から迎えが来る。帰る準備をせねばならぬが」
アンジェリークの狼狽を知ってか知らずか、穏やかな表情のままジュリアスが言う。その言葉にアンジェリークは、体に巻き付けたシーツの端をぎゅっと握り締めた。
今、再び思い知らされる……自分がただの、面倒を起こした女王候補の“女の子”に過ぎないということを。
この人……私の裸を見て、体に触れてまでしても、何にもなかったみたいに飛空都市に帰る準備をしなければ、って言う。酷く優しいのはきっと……私を哀れんでいるからだ。最後の最後でこんな馬鹿げたことをやらかした私に……心底愛想も尽きているかもしれない。自分から辞退するより先に、女王候補失格だってレッテル貼られちゃったんだわ。
だから……だから「最後だ」って言った。
「……そう……ですよね」
ぽつりと口から漏れた言葉にジュリアスが反応した。
「どうした?」
「私を叱るの……最後なんです……よね」
今度は少し大きめの声で言った。だが今度は何も返って来なかった。恥ずかしさと自分に対する悔しさと情けなさがない交ぜになった状態で俯いていたアンジェリークも、さすがにどうしたのだろう、とおずおずと顔を上げてみた。
そのジュリアスは、自分をじっと見つめていた。
「ジュリア……」
思わず声をかけようとしたアンジェリークに向け、ジュリアスは微かに笑った。そのとたん、アンジェリークはぎくりとしてジュリアスを見つめ返した。
この笑顔には見覚えがある。
「良いか、アンジェリーク。知らぬことを尋ねるのは決して悪くない。知らぬままやってしまうことが良くないのだ」
笑みを絶やさぬままジュリアスは言う。
なんて儚い笑顔。
これは。
「ジュリアス!」
思わずアンジェリークは叫んでいた。自分の声にアンジェリークは驚いたが、それ以上にジュリアスの方が驚いていた。
「どうした、そのように大きな……」
ジュリアスの言葉を遮り、アンジェリークは言った。
「きちんと話して」
「……何をだ?」
問われて、はたとアンジェリークは言葉に詰まる。そうだ、何を話せと私は言うのだろう。
……でも、違う。この笑顔はジュリアスの本当の笑顔ではない。
そう、これは……光の力を望んでいる、と私が嘘をついたときに見せた笑顔。
私が望んだと言ったとき、本当はどこかでわかっていた偽りと、もしかしたら、と微かな望みの両方を持っていたときの顔。
二度と……こんな顔をさせちゃいけないと思った顔。
「わかりません……」一瞬俯いたものの再びぐっと顔を上げてアンジェリークは続けた。「でも、あなたは私に言うことがあるはずです、だって」
ジュリアスが自分を見つめている。
体が震える。
こんなことを言ったら、怒るだろうか。何を勘違いしているのだと怒鳴られるだろうか。
だけど。
「そんな笑顔、あなたのものじゃない!」
ジュリアスの表情から笑みが消えた。図星だ。アンジェリークはまだ少しぼやけた頭を懸命に回転させ、導き出した答えを口にした。
「私……本当は昨晩、お話するつもりだったんです……女王候補を辞退する……って」
そう言ったとたん、アンジェリークは強い力で肩を掴まれた。
「きゃっ!」
「……女王候補を辞退する……だと?」
眉と目が一気につり上がる。もともときつい顔立ちだ。それに今までももちろん不機嫌なジュリアスの顔は知っている。ずっと自分に対しては不機嫌なのだと思っていたからだ。だが、このときほど恐いと思ったことはなかった。恐くてアンジェリークはぶるぶると震えた。それでも今、ここで引くわけにはいかなかった。
何故なら、今、このときが“最後”なのだから。
「そ、そうですよね、辞退なんてものじゃないですよね、失格……ですよね」
肩を掴んだ指先の力を少し緩め、ジュリアスは大きくため息をついた。
「呆れてますよ……ね」
「ああ」
全く否定せずジュリアスは頷いた。その態度にアンジェリークの頭に血が上った。
「そうですよね、こんな、馬鹿な女王候補に振り回されて力を取り上げられて、もうちょっとで死にそうになって、見たくもない小娘の裸を見せられて、体まで洗わされて、徹夜するはめになって……!」
いざ言葉にすると、本当に酷い仕打ちの数々だ。アンジェリークは恥ずかしさのあまりジュリアスを見ることもできず、ぎゅっと目を閉じた。呆れられて当然だ。なのに自分は調子に乗ってこの人に……恋した。それどころか、女王候補を辞退して飛空都市を去らなければならないその前に、この人に−−。
「アンジェリーク」
低く、静かな声がした。
あまりにその声が厳かだったので、アンジェリークははっとして目を開いた。笑顔ではなかった。ただ……なんとなく、アンジェリークは彼が泣くのではないかと思った。おかしなことだ。何故そう思ったのかわからない。その間にアンジェリークの肩から離れた指は、シーツを持っていない方の手を取っていた。
「では……申し上げます」
指は軽くアンジェリークの手を握った。
「あなたが次期女王に……決まりました」
そして念を押すかのようにジュリアスは、アンジェリークの手を取ったまま、ゆっくりと跪いた。その間、取られた手は微動だにせず、いかにジュリアスがこういう動作に慣れているかを如実に表していた。
「光の守護聖ジュリアス、あなたに永遠の忠誠を」
「ち……ちょっと待ってください!」
一瞬意識を失ったかのような状態から我に返ってアンジェリークは、手を取られた状態のまま叫んだ。
「それって……どういうことですか!」
女王候補を辞退すると言ったのに、その返事が「次期女王に決まった」だったので、アンジェリークの頭は混乱を極めていた。
私……私が……女王……?
どうして?
どうしてなの?
「……申し上げたとおりです」再びジュリアスは微笑んだ。「飛空都市に戻れば正式に現女王からの詔<みことのり>があるでしょう」
だがその笑みは、アンジェリークが訝しげに思ったままだった。まだジュリアスは何かを隠している。
「……さっきも言いましたけど……私は……あなたの力を、取り上げたんですよ?」
「過ぎたことです」
「そのせいで、あなたは死にかけたんですよ?」
「あれは私の不注意によるものです。ですが、あなたが助けてくださいました」
そう言ったとき見せた笑顔は、何故か本当だと瞬間アンジェリークは思った。どうしてこんなものが見えるようになったんだろう。きっと今までもこんな微かな表情の変化はあったに違いない。それを私はいつもちょっと厳しいことを言われた時点で俯いてジュリアスのことを見ようとしなかったから……。
「私が……助けた?」
「畏れながら……あなたはご自分のことをおわかりになっていない」
そう言うとジュリアスはアンジェリークの手を離そうとした。だがアンジェリークはそれを許さなかった。反対に手を掴まれたままにしながらジュリアスは少し目を伏せて話を続けた。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月