Holy and Bright
◆5
ジュリアスはあてがわれた部屋をぐるりと見回した。
飛空都市では、聖地よりは遙かに劣るもののそれなりの館が用意されていた。だが、ここでは……とにかく、ベッドから歩いて四歩ぐらいの場所にドアがある部屋で寝ることは、彼にとっては初めての経験だった。隣のアンジェリークの部屋を検分に行ったところ、ベッドからドアへは十歩は離れていたので、たぶんあの部屋はここエリューシオンにおいては破格の扱いだったのだろう。
遊星盤からではあったが、人が住み、それなりに成長したころのエリューシオンを見に来たことがあった。確かあのころの神官はまだ幼い子どもだった。こちらからその姿を見たが、向こうは空から見られているとは思わなかっただろうから、当然ジュリアスのことは知らない。
人口は増えたようだ。だが、当時からあまり進化している様子はなかった。それが自分の力−−誇りを司る光の力がないことにつながっていることは、ジュリアスには重々わかっていた。民が大陸の発展を望んでいないとは思いにくいが、アンジェリークが民の意志を尊重するのであれば、それはある程度致し方ないことだ。しかしそれは、これから一週間の間にしっかり調査し、是正すべきことを見極めなければならない。
さて、今夜はいわゆる“天使様”御来訪歓迎式典だ。
ジュリアスは式典慣れしているが、それはあくまでも彼が主賓であるものばかりだ。女王が聖地から離れることはないし、女王補佐官も執務で精一杯なので、たいていジュリアスが名代を務めることが多い。もちろんジュリアスとて多忙を極めていることに変わりはないが、そのような役目はそれなりの者が務める役目だと弁えている。
アンジェリーク……。
ジュリアスは思わずこめかみを押さえた。思ったよりはおどおどせずに部屋まで案内されたけれど、いつ化けの皮−−そのようなことを言ってはいけないのだが−−が剥がれるか心配だ。さっきは思わずスカートの裾を引っ張るような真似をしてしまった。狼狽える彼女に目配せなんて気の利いたことは通用しなかったからなのだが、まさかこのジュリアスが少女のスカートを引っ張るなどと……。
ジュリアスはため息をついた。思い煩ってみても仕方がない。これは女王陛下からの命だ。それに抗うのはジュリアスの本意ではない。何かお考えがあるのだろう。ならばそれに従うだけだ。
鞄を開く。そこにはディアが用立ててくれた、エリューシオンでも違和感のない程度の服が入っていた。いつもの乗馬服のような感じのものなので、問題なく着替えた……自分一人で。いつもなら側仕えが控えていて、ジュリアス一人が着替えることはそれほどない。
「まあ、これはこれで気楽だ」
声を出して言ってみた。半分本音で、半分は……慣れない妙な感覚のままで。
ドアをノックする音に、着替えに手間取っていたアンジェリークは慌てた。
「アンジェリーク……様」
尊称をつけることに詰まっているこの声はジュリアスだ。
(やだ、もういらした!)
焦って一気に顔に血が上る。というのも、式典ということで彼女の持っているワードローブの中で最もレースの多く、良さげに見えるワンピースを着ようと思っているのだが、とにかく背中のファスナーが中途半端なところで止まってしまい、上げることができないのだ。
「は……はいぃ!」
「御用意はよろしいか? もうすでに式典の準備は整っておりますが」
思い切り丁寧な言い様だ。言葉だけで緊張してしまう。
「ま……まだです……ジュリアス様、先に行……」
そう言った拍子にドアが開いた。
「私に尊称はやめよと言ったは……」
小さくはあったが、ドアから離れた場所にいるアンジェリークにもしっかり聞こえるような通る声でジュリアスは言って入ってきた。だが彼は、アンジェリークの姿を見るなり、凍りついたようにドアの前で立ちつくした。
「きゃあ!」
アンジェリークは真っ赤になった。見られた……! ドレスの下に付けている下着のみならず、はだけたままの背中もきっと!
「失敬!」
ジュリアスも慌てて後ろ向きになったようだったが、開けたままのドアは閉めた。
えええ、部屋から出てくれないの?
アンジェリークの思いはしかしまったく通じない。
「な……何をしている。早くせぬか」
おずおずとジュリアスのほうを見る。ジュリアスはこちらに背を向け、ドアの方を見たままだ。少しだけほっとしたものの、ジュリアスが部屋の中にいることには変わりない。
「だって……ファスナーが上がらないんです……」
言いながらアンジェリークは恥ずかしくて、できることなら、背後にあるベッドの中に潜り込みたくなった。
「側仕えの者はいないのか? 天使様たるおまえの世話を見る」
「私が……断ったんです……そんな扱いされるの……慣れてなくて……」
着替えぐらいいつものように自分一人でやるんだけど……たまたま、ファスナーに布が食い込んだだけなのに……なんて間が悪いんだろう。
アンジェリークは黙り込んだジュリアスの後ろ姿を見た。
ああ……またきっと怒っていらっしゃる……わね……。
そう思った瞬間、ジュリアスがこちらを振り返ったので、アンジェリークは慌てて背中を見せないよう庇った。けれど、ジュリアスがずんずんとこちらに向かって進み出たので、思わずアンジェリークは後ずさりした。そして後ずさりしすぎて、ベッドにつまずいた。
「きゃあ!」
ベッドに倒れ込む前に、ジュリアスが腕を掴むほうが早かった。アンジェリークを抱きかかえるようにしてジュリアスはふぅと深く嘆息した。
「……慌てるな……」
目前にジュリアスの顔があってアンジェリークは声も出せなかった。だが、それにさらにダメージを与える言葉がジュリアスの口から出てきた。
「私が見てやろうと思ったのだ。後ろを向くがよい」
「あ、あ、あの、いいです、私、やりますし」
ちょっ……ちょっと、どうするつもりなのよぅ、ジュリアス様!
「時間がない。皆を待たせるな」
ジュリアスの力はアンジェリークが思っている以上に強かった。肩を掴まれ、アンジェリークはあっという間に背を向けさせられた。腰のあたりと首もとの布が引っ張られてすぐシャッ、とファスナーの上がる音がした。
「さあ、アンジェリーク、早く……」
ジュリアスの声が途切れた。アンジェリークだって、こんな情けないところは見せたくなかった。なかったが……。
「すまない、アンジェリーク、その……」
アンジェリークは、初めてジュリアスが謝る言葉を聞いた。悪くない。ジュリアス様は決して悪くない。こんなつまらないことで民を待たせる私が悪い。
でも……こんなされようは……酷い……!
結局、歓迎式典はそれからずっと後に時間をずらして行われた。神官たちが、従者のくせに天使様をたいそう泣かせたと、以降ジュリアスに対し冷たい態度を取るようになってしまったのは致し方ないことだった。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月