Holy and Bright
◆8
ジュリアスは、ある意味、アンジェリークが裸のまま倒れていたときよりも強い衝撃を受けた。
「な……」
「ほぅら、呆れたでしょう?」自嘲してアンジェリークは肩を震わせた。「こんなこと考えてる私の一体どこに、その、聖なる眩い翼なんてものがあるんです? それこそ、畏れ多くも、光の守護聖様に対して、こんなこと考えてる私の」
ひっく、と喉の鳴る音がした。
「……どこが女王……なんですか……?」
そのとき、部屋の外で数人の足音が聞こえてきた。ジュリアスとアンジェリークは思わずドアの方を見た。
「ジュリアス様」
パスハの声だ。
それと同時にその柔らかな乳房に押しつけられていた戒めが解け、ジュリアスの手は自由になった。
「……お願いです」
ぽつりとアンジェリークが言った。俯いている。そしてまた、あの白いうなじが見えている。
「着替えますから……パスハさんにもう少しだけ向こうで待つよう……」
「パスハ、すまないが出直してくれぬか! 私から連絡する」
ジュリアスはアンジェリークが言うまでもなく、そう叫んだ。
「……ですが……」
パスハの、少しだけ咎めるような声音が聞こえる。パスハの事情もわかる。きっともう飛空都市では女王即位のための準備を万端に調え……いや、すでにもう女王が次期女王の帰還を待ち構えているに違いない。
だが。
「頼む」
そう言うとジュリアスは、身を乗り出してアンジェリークによって外された手で巻き付けていたシーツを払い、彼女の乳房に触れた。
「ジュ……!」
「これでパスハがドアを開けば、私も相当な大痴れ者というわけだ」
小声でジュリアスが、ドアのほうを睨みつつ言った。
「……了解しました。それではあと少しだけ」
そう応える声がして、人々は去っていったようだった。そして、ジュリアスがふ……と安堵の息を漏らしかけたとき、ルゥの「良かった、天使様もジュリアスも、まだ行っちゃわなくて!」という明るい声が聞こえた。その言葉に、ジュリアスとアンジェリークは思わず顔を見合わせた。
だが、アンジェリークはもう、屈託のないルゥの言葉にも笑わなかった。アンジェリークの乳房から手を外し、ジュリアスは再びシーツを彼女の胸元に巻き付けようと引き上げたが、彼女は受け取らなかった。剥き出しの乳房を直視できず、ジュリアスはそっと彼女から視線を外した。
「見ても……触れても……どうってこと、ないんですね」
咄嗟の行動は、アンジェリークに引け目を感じさせないための、ジュリアスの優しさだとわかっている。けれど。
俯きかげんになっているので、アンジェリークにはジュリアスの様子はわからない。ただその目から涙が雫となっていくつもシーツに落ちていく。
「私は……ドキドキしてました……自分勝手に決めても……やっぱり恐くて……先にシャワー浴びちゃったから、あなたがシャワーを浴びている間……待ってる間……何とか早く落ち着きたくて……いっぱい蝋燭を点けたら早く落ち着けるかなと思って……」
まるで何かを唱えるように言っていたアンジェリークは、ふと言葉を止めてしばらくじっと何かを考えている様子だったが、やがて少し顔を上げて微笑んだ。
「そっか……。ジュリアス……あなたが親切に、こんな小娘の体を我慢して洗ってくれたのも、私が女王になるとわかっていたから……ですね?」
ぎょっとしてジュリアスは、アンジェリークを見返した。アンジェリークは、酷く虚ろな顔をしてジュリアスを見ていた。
「あ、やっぱり……。私……てっきり女王候補失格だと言うのが辛いのかと思ってました……あはは」
笑う声すら虚ろだ。
「あなたが優しいのは、私が女王候補−−ジュリアスがもっとも敬愛する存在である女王の、候補だからだっていつも言い聞かせてたのに私ってば、やっぱり図に乗っちゃって……」
ジュリアスは言葉が出なかった。
そうだ。そして、違う。
翼を愛した。だが、それだけではない。
「最後の最後まで……本当に、ご迷惑をお掛けしました……」
そう言ってアンジェリークは、ぺこりと頭を下げた。
「着替えます……」
ようやくシーツを持って体に巻き付けるようにすると、アンジェリークはベッドから足を降ろし、立ち上がろうとした。だが、どこか体の芯にまだあの蝋燭の効果が残っているのか、深く眠り過ぎたせいか、あるいは……精神的なショックのためか、足元がおぼつかずよろめいた。
慌ててジュリアスが受け止めようと手を差し出したが、アンジェリークは何とか自分の足で踏みとどまると、それを強く払いのけた。
「もう……優しくしないでください……! 私って、物事も知らない愚か者なんですから、すぐ勘違いしちゃうんです!」
一瞬怒りを露わにしてそう叫んで後、一気に表情を曇らせ、アンジェリークは頭を下げた。
「……ごめんなさい」
またうなじが見える。ジュリアスはそれを凝視している。
「……私……あなたが本当はとても優しいことは知っています……いえ、この一週間で知りました」
私が、優しい……か。
ジュリアスは白いうなじを見つめながら口の中で呟いた。
このうなじに、あの湯船の中で私がどれほど唇を這わせたか告げても、おまえは変わらず優しいと言ってくれるだろうか。これほど、おまえに全部言わせて、恥をかかせても、黙り込んで、嘘で塗り固められた笑顔と敬語で取り繕う私のことを知っても。
それでも私は、おまえに何も言ってやれない。
言えば私はもう歯止めが利かない……それでなくとも、もう少しでおまえの翼をむしり取りそうになったものを。
顔が上がった。ジュリアスを見る顔に、先程よりはずっと明るい笑顔があった。
「だからもう、私のことは心配しないで」
そう言ってアンジェリークはジュリアスの前を通り過ぎていく。
諦めたのだ。
全てを……彼女は。
ドアを開き、閉める音がする。そしてパタン、パタン、とクロークや鞄の開け閉めの音だけが響く。以前に聞いたことのある激しい嗚咽の声ももう聞こえない。だがその静かさはかえってジュリアスの狡さを責めるようだ。
ベッドに腰を降ろすとジュリアスは、目を痛いほどきつく閉じ、開いていたシャツの襟元を強く掴んだ。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月