Holy and Bright
ジュリアスはそこまで思い出すと、笑みを収めてアンジェリークの前で跪いた。
「翼をむしり取ることなどできはしない……たとえ私がおまえを欲望のまま抱いたとして……私も過去の女王がどうだったかという知識はないが、たぶん女王としての力を振るうことに問題はないだろう。それより私は……精神的なことを言っている」
アンジェリークはすぅ、と息を吸うとジュリアスを見て言った。
「精神的なこと?」
ジュリアスは頷いた。
「聖なる眩い翼を持つ存在が、純粋に憧憬……憧れの対象であればそれで良かった。私は幼いころからずっとそう思い続けていた。先代の女王陛下も、そして現在の女王陛下にも。だが……おまえは違った。おまえは……やはり翼を持つ憧れの存在であり、それと同時に……」
ジュリアスは一呼吸置いて、告げた。
「生身の……愛しい女」
その言葉の威力に、思わずアンジェリークはぺたりと床に座り込んでしまった……まるで一気に全身愛撫されたような気がした。
だがジュリアスは視線を全く外さず続ける。
「私は……それを認めたくなかった。守護聖の首座として、光の守護聖としてあるまじき考えだ。あってはならぬ欲望だ。だから本当はこの愛情を、全部忠誠心に変えるよう努力してみたが、否応なしにおまえの体に触れたのでそれは潰えた。そこで私はこれを、黙って抱え込むことにした」
瞬間、アンジェリークは思い出す。
あの儚い笑顔。
あれは……懸命に“抱え込んでいる”状態だったのだ。
でも……。
「おまえには見抜かれていたな。私は思い切りがつかなかった」
ジュリアスは小さく息を吐いた。
「私は、私自身が疎まれることにはある程度慣れている……慣れるものではないが」
その言葉にアンジェリークは胸が痛んだ。首座である限り、彼が憎まれ役になるのは致し方ない。自分自身がまさにそうだった。今ごろになってアンジェリークはそれを理解したけれど。
「だからまだ何事もなかったような表情ができる、と思っている。だが……」
アンジェリークの瞳を覗き込むようにしてジュリアスは言った。
「私の下手な本心隠しを誤解して、私を慕う者が自身を責める姿を見るのは耐え難い」
ぎくりとしてアンジェリークはジュリアスを見返す。さんざん泣き、叫び、反対に怒り、最後は恨み言まで言って思いを断ち切り、諦めようとしていた。
「おまえが、うなだれ、俯いたときに見せる……」
今度はゆっくりと、アンジェリークが嫌がれば身を引く余裕があるほどゆっくりと腕を伸ばし、ジュリアスはアンジェリークの首筋に触れた。だがアンジェリークはもう逃げなかった。
「このうなじをもう見たくないと思った。私ときたら、おまえの顔を見るよりここを見せつけられる機会が多かったからな」
微かに頬を緩めて言った後、すぐにジュリアスは顔を引き締め言葉を続ける。
「ならば、いっそのことおまえに嫌われるよう仕向けるべきなのだが」
思わずアンジェリークはぶんぶんと勢いよく首を横に振った。その様子にジュリアスは再び微笑み、掌を頬へと持っていった。
「私こそそれはもう勘弁してもらいたい。森で何もできぬまま横たわっていたとき、私は本当に孤独だったから」
アンジェリークの体がびくりと揺れ、頬に触れた掌にその振動が伝わる。あれはどれだけジュリアスが言葉を尽くしても、アンジェリークの中で傷となって残るだろう。痛ましくはあったが、少しでも癒すことができれば、とジュリアスは親指ですっとアンジェリークの頬を撫でた。
「もう二度と言わぬが……負傷したことも、サクリアがなくなっていたことももちろん衝撃ではあったが、もっとも痛手を受けたことは……おまえが私を必要としていないという事実だった」
たまらずアンジェリークは涙をこぼした。ルヴァから言われていたことだ。だがジュリアス本人からきっぱり言われることはやはり相当堪える。
その間も、頬を撫でていた親指は涙を拭い続けている。
「……もうこのまま、眠ってしまった方が楽だとまで思った。人々に生きる意欲を与える光の力を持つ、この私がだ」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……! 私……」
もう親指ではアンジェリークの涙は止められない。
「言いたかったことは、おまえを責めるためではない」
ジュリアスはそう言うとにじり寄って再びアンジェリークを抱き締めた。
「私がいかにおまえに見限られるのを恐れているかということを言いたいのだ……だから……先にも言ったがもう二度とこの話はせぬ」
なだめるように背中をさすられ、アンジェリークはようやく涙を止めることができた。そしてアンジェリークはジュリアスの、シャツが少しはだけて見える胸に直接頬が触れているのを感じた。そこは温かくて安心する。思わず頬を擦り寄せながら、アンジェリークは呟くように言った。
「……じゃあ何故……こんなにきっぱりと言う気になったんですか?」
「おまえにすまなくて」
即答してからジュリアスは苦笑した。
「ああ、そう言うことすらも、私がいかに狡いかを露呈しているようなものだな」
「あなたが狡い?」
「そうではないか」ジュリアスはふっと鼻で笑った。「おまえはすべてさらけ出して私に好意を示してくれたのに、私は、私自身の憧れとやらいうものや、立場や、今までそうだと信じてきたものに対しがんじがらめになるばかりで、肝心のおまえの気持ちなどまるで介さなかった」
「……でも、それを通すつもりだった……んでしょう?」
ジュリアスの部屋を出ていこうとする自分に、ジュリアスは何も声を掛けなかったことを思い出しつつアンジェリークは尋ねた。
「ああ。だがやはりどうにもならず……せめて謝る程度に止めようと思っていた」
ジュリアスの声が、彼の胸を通じてアンジェリークの耳に響く。
「なのに、おまえときたら……下着のことで動転して」
「だ……だってあれはっ!」
思わず顔を上げてアンジェリークはジュリアスを見た。だがアンジェリークは続きを呑み込んだ。慈しむような柔らかなまなざしが自分に注がれている。あの、目覚めたときのような静かな表情だ。
優しい。
あの激しさも、この穏やかさも両方……ジュリアスのものだ。
そしてこれは、私だけに見せられ、私だけが感じるもの。
「……一緒に笑ってくれるかと思いました。何故わかったの?」
そうだ。あのとき抱き締めてなだめてもらえなかったら、私はきっと自己嫌悪のあまり、おかしくなっていた。そう思うとアンジェリークはぶるっと体を震わせた。
「……さあ。おまえが、私の笑顔について私本来のものではないと言い切ったようなものだろう」ふっと笑ってジュリアスは言った。「お互い妙な熱に浮かされていると思ったが……どうやらそうでもなさそうだな」
「それが……正直に言う気になった理由ですか……?」
アンジェリークのその言葉にジュリアスは真顔になった。
「そうだ。私にとってはもう、おまえ以外考えられない……だが」
アンジェリークの身を引き剥がすとジュリアスは、まるで幼い子どもに諭すようにゆっくりと言った。
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月