Holy and Bright
◆7
「くだらぬことを申すな!」
とうとうジュリアスが怒鳴った。幸いランプをベッド横の小机に置いた後だったので、女は驚いて物をひっくり返すようなことはしなかった。だが。
「ひぃぃ!」
女とアンジェリークの両方が小さく悲鳴をあげた。
「何が“夜伽”だ! そこの女!」
「は、は、はははい!」
「エリューシオンのものでよい、辞書を持ってくるがよい!」
「は、はいーっ!」
ころがるようにして部屋を出ていく女から、ジュリアスは視線をベッドにいるアンジェリークに移した。
怒鳴られる!
アンジェリークは思わずシーツを頭から被った。だが、ジュリアスからは声も物音もしなかった。そうこうしている間にぱたぱたと走ってくる音がして、女が戻ってきた。アンジェリークはおずおずとシーツから目だけを出した。
「ご苦労」
そう言ってぶ厚い辞書を受け取るとジュリアスは突っ立ったままの女を睨んだ。
「決して口外はするな。良いな」
「は……はい」
「では下がれ」
女がこそこそと去っていく。その後ろ姿を見ながらアンジェリークは漠然と、生まれながらにして人を使うことに慣れているジュリアスと、そうでない自分との差を思っていたが、やがてはっと気づいた。
そんなこと、考えてる場合じゃなかった……。
何とかその場をしのがなければならないと思い、アンジェリークは意を決してシーツから顔全体を出した。
「あの、ジュリアス様」
辞書をぺらぺらと捲っている手を止めて、ジュリアスはアンジェリークを見た。
「何ですか、アンジェリーク様」
丁寧に返された。その静かな怖さにやはり顔を引きつらせてしまいつつアンジェリークは言ってみた。
「私、“ヨトギ”が得意なんです。だから私が」
どすんと音がした。
「ジュリアス様、あの」
「アンジェリーク」
様付けでない。良かった。そのほうがむしろ安心する。
「はい」
懸命に返事してみる。
「おまえの言う“ヨトギ”がどのようなものか説明してみよ」
「え」
「私としては……そなたがその言葉の意味を知らぬよう願うばかりだ」
先ほどの音は辞書を落とした音だった。それを拾い上げるとジュリアスは再びページを捲り、何か見つけたらしい。ある箇所を指で指しつつ開いた辞書を、シーツをかけたアンジェリークの膝あたりに置いた。
「えっと、夜のお風呂上がりに呼んで言えばいいってオリヴィエ様が言ったから……」
「ほほう、オリヴィエがそう言ったのか?」
しまった、と思ったがもう遅い。上目遣いにジュリアスを見ながらアンジェリークは小さく頷いた。
「肩揉みぐらいかな……なんて、あの……思って……」
「私に肩を揉ませたかったわけか」
アンジェリークの言葉を遮り、ジュリアスが畳みかけるように言う。
「あ、いえ、あの、そうじゃなくて」
しどろもどろになりつつアンジェリークは続ける。ますます拙い状況になりつつあるような気がする。
「私、肩揉みがすごく得意なんです! パパもママも上手いって誉めてくれるんです! だから、ジュリアス様の肩も揉んで差し上げま……」
「不要だ」
すっぱりと断ずるように言うとジュリアスは、再び辞書の上を指で叩くように示した。
「ここだ。ここをきちんと読むように。良いな」
「はい……」
頷いたのを確認するとジュリアスは満足したように少しだけ微笑んだ−−ような気がした。アンジェリークは彼が笑った顔を見たことがなかったので、本当にそうなのかどうかわからなかったが。
一歩ベッドから退くとジュリアスは姿勢を正した。
「それでは、私はこれで失礼いたします。お休みなさいませ」
深く礼をする。
「あ、はい、お休みなさい」
つられてアンジェリークも答えた。再度一礼してジュリアスは部屋を出た。そしてアンジェリークは目を辞書の、指し示されたところへ向けた。
ジュリアスは、アンジェリークの部屋の向かいにある自分の部屋へ戻り、ドアを開いた。そして閉めると同時に彼女の悲鳴が聞こえたような気がした。
どうやら本当の意味がわかったらしい。
ドアから四歩歩いたところで突き当たるベッドに座り込み、いつものジュリアスらしからぬ様子でどっと身を横たわらせる。
そしてジュリアスは……ぷっと吹き出した。
おかしな娘だ。シーツを頭から被って隠れたつもりか?
そのうえ真面目な顔をして夜伽を務めよと言ったことも。確かに従者が主の側で夜っぴき見張り世話をするという意味もあるけれど、大方の意味はそういうことではない。
私にそう命じただけでなく、夜伽が得意だとまで言ったぞ、あの少女は。
そのとき不意に、ジュリアスの頭にその少女の白い背中が浮かんだ。自然と笑みが消えた。
美しいと思った。そして抱きかかえたとき、なんて華奢なのだろうとも。
女王たる存在は、もっと大きなものだと思っていた。もちろん体格の問題ではない、その対象についてだ。ジュリアスが守護聖になったときの女王陛下は−−あれこそまさに女王陛下とお呼びすることがふさわしい−−美しく、そして聖なる眩さのあふれる存在だった。それに比べ、アンジェリークの背の美しさはそれとは異なる。聖なる眩さというよりは……。
そこまで思ってジュリアスはびくりとした。
今ごろになって、あの少女の背に“女”を感じるなんて。
「“夜伽”などとつまらぬことを言うからだ」
吐き捨てるようにそう呟くとジュリアスは体を起こした。すぐ目の前のドアの向こうに彼女がいる。
ドアを一瞥するとジュリアスは、再びベッドに横たわった。
……着替えは面倒だ……疲れた。
意外と気苦労な一日だったらしい。派手にため息をついて、ジュリアスは目を閉じた。
--- chapter 1 了
作品名:Holy and Bright 作家名:飛空都市の八月