主花ログ詰め合わせ
「俺さ、動物とか物とか、そういうものの気持ちが分かるんだよ」
薄らと笑みを浮かべ、それでいて眸は真摯ないろを湛えながら、そいつは俺にそう宣った。
茶化す事も出来ず、へえ、とか、そう、とか適当な返事を返したのは記憶に新しい。新しい、が、その事をスッカリ忘れ去った頃、月森の奇行が始まり、俺はその言葉の真意を知る事になる。
そもそも物凄い異臭を全身に纏わせながら帰宅してきたのが、事の始まりだった。思わず眉を顰めると、にへらと悪びれも無く月森は笑った。
取り敢えず風呂にぶちこんで、よく分からない汚れと臭いを染み込ませた服を洗濯機へと放り込む。俺の服まで臭いがついたらどうしよう、と密かに内心心配しつつ、おざなりに洗って出てこようとする月森を押し戻し、一緒に風呂に入る。シャンプーやボディソープをこれでもかと泡だてて、臭いが消え去るまで徹底的に「洗濯」してやった。
そうして事無きを得たその翌々日、今度は全身濡れ鼠で帰ってきた。今日の講義は午前のみだと聞いていたから、余裕で帰宅出来た筈だ。なんせ雨は午後から降り出したのだから。
理由を聞いたら、うん、とか、うー、とか、応えともつかない生返事が返るのみで、キレた俺はタオルを顔面にぶつけてやった。
更にその翌日、朝から雨が降っていたけれども大学は休みで、なら久し振りに二人でまったりするかな、と考えていた矢先、傘を持って出掛けようとするあいつの姿が目に端に止まる。バイトや用事があるとは聞いていない。ならば急用が出来たのだろうか。どこか急いている様子に、声を掛ける事が出来なかった。
それを後悔したのはその数時間後、あいつがまたもやズブ濡れで帰って来たからだった。何の為の傘だったのか。というかその手に傘がないのは何故なのか。
突っ込みどころは満載で、聞きたい事も山程あったが取り敢えず風呂にぶちこむ。…何だか前にもこんな事があった様な気がするのは、気の所為だと思いたい。
そんな事を二日続けてやった所為か、あいつは風邪を引いて寝込んでしまった。酷く屈辱的な顔をしつつ、苦しそうに息を吐くのを複雑な気持ちで見やる。
ざまあみろ、と完全に思えない己の性格が恨めしい。それどころか大丈夫か、と甲斐甲斐しく世話をして、いつになく甘やかす自分に頭を抱えたくなった。
ところが流石というべきか、たった一日休息をとっただけで月森は回復したらしい。流石は我らが元リーダー。体力値は底なしか。
そんな事を思っていた俺を余所に、気が付けばベッドを抜け出し家を出ていた。軽く殺意がわいたのは言うまでも無い。
からっからに晴れた次の日。時間潰しにその辺をぶらぶら歩いていたら、最近俺の平穏を掻き乱す、原因ともいえる人物に出会う。肩には何やらドでかい物体を乗せている。そして心なしか、獣臭いのは何故なのか。
おそるおそる近付いて声を掛けると、ドでかい物体は大型犬だった。ぐったりと項垂れていて、一目で死んでいると分かる。驚いて二の句が継げない俺に、月森は一言「待ち人はとうとう来なかったみたいだ」とだけ呟いた。
もうとっくに成人した、大の男二人が泥塗れになって、名も知らぬ犬の墓をたてる。唯つけていた赤い首輪だけは埋めずに、外して取っておいた。土を掘りながらぽつりぽつりとあいつの口からここ数日の奇行の経緯が話されるのを、俺は黙々と手を動かしながら聞いていた。
要約するとこうだ。今日の俺の様に偶々この道を通りかかった月森が、ごみ溜めの中に行儀よく鎮座する犬を見付けた。何事かと近寄ると、その犬は飼い主を待っている、という事を知った。こんなところに置いておくくらいだ。捨てられたのだろうと容易に想像が付く。
それでも犬は去り際の「いつか迎えに来るから」という言葉を律義に信じて待っていて、それならばとこの大阿呆はそれに付き合う事に決めたのだそうだ。矢鱈と異臭を放っていたり、二日間ずぶ濡れで帰ってきたりしたのはこの所為か。しかも傘までご丁寧に犬にやるとは。
「犬を見るとどうも花村を思い出して」と笑いながらやけに真面目な声音で嘯く月森の頭を叩きながら、取り敢えず外した首輪をどうするのかと問うてみると、それはその犬が待っていた場所に置くのだという。動物に対しても真摯で律義な態度に、呆れと感嘆とその他諸々の思いが複雑に折り重なって、結局溜息を吐く事で落ち着いた。
そもそもその首輪は犬の事を教えてくれたであろう人物に預けた方が良いのではないか。
俺はすっかり、あの時の言葉を忘れていた。
「結局来なかったな」
ふいに耳に馴染んだ声が入ってきて、視線を上へとあげる。その先には案の定月森が居た。
煤爛れた赤い首輪に話しかける様は不気味で滑稽極まりないが、今ならその行動の意味が分かる所為か、邪魔しようとも思わない。随分とオカルトちっくな話だが、信じざるを得ないのだから仕方ない。
実は俺はあの後、犬の事について近隣の住民に話を聞きまくったのだ。何となく気になったのもあるし、そして首輪の件があったからだ。
俺はてっきり犬が捨てられた事も、飼い主を待っていた事も、それを目撃した人間が月森に教えたのだとばかり思っていた。だからこそ事情を知っている人間を突き止めて、首輪だけでも飼い主の手に渡れば、と思ったのだ。――そう思っての行動だったのだが、然しながらそれは意外な結果を俺にもたらした。
あいつはハッキリと犬が飼い主を待っている、と言ったのに、その事を知る人間が、一切居なかったのだ。じゃああいつは誰から聞いたのか。自分で予測を立ててそう言ったとも考えられるが、生憎不確かな状況証拠だけで結論付けるようなヤツではない。となると認めたくはないが、犬しかいない事になる。
ふいに何時かの言葉を思い出す。それから、どうしてあの時もっと真剣にその言葉に耳を傾けなかったのかとも。
それを正直に話すと、「花村ってバカだよね」と笑いながら腹の立つ言葉を容赦なく放たれた。軽いどころではない殺意がむくむくと湧きあがったものの、「でもそういうところが好きだよ」と言われれば、それを引っ込めるしかない。我ながらお安く出来ているなあと思う。
「俺はね、動物や物の気持ちが、分かるんだよ」
そう俺の相棒は言う。嘘か真か、未だに信じ難い事ではあるけれども、「この話、信じてくれたのは花村が初めてだよ」と小さく笑いながら告げるお前に、それが例えば騙されていたとしても、俺は最後までそれを信じ続けようと、そう思ったのだ。