雪椿
雪が降っている。
二日ほど前から降り続いている。初めのうちはザラメのようなカリカリとした固い雪だったのだが、今はふわふわと柔らかい牡丹雪だ。鉛色に濁った空からゆっくり、ゆっくりと落ちてくる。
雪は世界を白く変える。山を、田を白く染め、朽ちかけた古木の幹の茶色も、朱の残る本殿の階の赤もみんな白一色に塗り変わる。ギンが今腰掛けている古い神社の石段も、ふわふわの雪で覆われて白い。輪郭もわからなくなるほどに。最上段から眺めると、どこが段の踏面か分からない。なにもかもが曖昧に白く溶けてしまったみたいな風景。
そしてこの白の世界では音も聞こえない。
ふわふわの雪が吸い取るのか、いつもなら烏の羽音も川のせせらぎも遠く響いてくるのに、なにも聞こえてこない。木々を吹き渡る風も絶えている。枯葉の積もる音もない。雪が積もるごく微かな音だけが、耳を澄ますと微かに聞こえる。ただそれだけ。
世界は枯れて、眠っている。
そんな中、最上段の右手にある古い椿の木だけが、趣を異にしていた。
深い青緑の艶やかな葉と鮮やかな紅色の花は、眠ったような白い世界にただひとつ、起きて動いている命の暖かさのようにも思える。葉に降り積もった雪は時にとさりと音を立てて落ちて、眠りかけた古い妖を驚かせたりもしている。
ギンは立ち上がるといつも被っている狐の面を外し、椿の木に近づいた。
紅色の花びらの真ん中に黄色の蘂が密集している。柔らかそうなその先端に、つい手を伸ばして触れてしまう。途端にぱっと花粉が飛び散り、ギンの指先や足元の雪が、みんな明るい金色に染まる。日の色だ。
ギンは日の色に染まった掌に、はあっと息を吐きかけてみた。もわもわとした白い吐息が、暖かい色に染まった指先を包み、手の輪郭をぼやかして広がり、消えていく。わずかだけれど体がぬくみ、ほっと肩から力が抜けた。
不意に思った。
こうすると暖かくなるのだと知ったのはいつだったか。
たぶん人がこうやって、誰かに教えていたのを見たのだ。子どもだったような気がする。そうだ。たぶん親が子に、寒いときにはこうしなさい、と教えてやっていた―――
「……いや、違う」
もしかしたら。
蛍が教えてくれたのかもしれない、とギンは狐のように尖った目尻に、ほんの少し優しい笑みを滲ませて思う。
蛍に会えるのは夏だけだから、寒いということはない。が、川で遊んで冷えたときなど、蛍がこうやってから両の掌を擦り合わせているのをみたことがある。
多分その時訊いたのだ。なぜそんなことをするのかと。それで蛍が教えてくれた。こうすると暖かくなるの、と。そんなことがあったような気がする。
「ふふ。あの時のあいつ。変な顔をしていた」
首をかしげて眉を顰め、目を上に寄せるような表情。小さな頃から時々そういう顔をする。とても変な顔だ。笑ってしまう。
だが小さな頃はただ変な顔、としか思わなかったが、最近はそんな顔でもなかなか愛らしいと思うときもある。不思議だ。
蛍が大きくなったからだろうか。
もしそうなら、もっともっと大きくなったら、もっともっと愛らしく思うようになるだろうか?
「……やれやれ」
知らずギンは吐息をついた。
この頃蛍のことを考える日が多い。何故だろう。
以前はこうではなかった。
もちろん夏になれば考えることはあった。蛍は今年も来るだろうか、来たら何処へ連れて行こう、何を見せてやろう、などと考えるのは少し楽しかった。
いや、あくまで、少し、だ。少し。ほとんどはうるさいな、とか、面倒くさいぞ、とか、あいつはすぐ飛びつくから困る、とかで鬱陶しく思う気持ちだった。
だが今は違う。
まあ、うるさい、とか面倒くさい、は多少あるが、前ほどではない。一方飛びつくのは完全にやめたから、それで困ることは無くなった。とてもホッとしている。
しかしだからといって、蛍のことを考える時間が増える理由にはならない気がする。
それに蛍のこと、と言っても、前のように何処に連れて行こう、とか、何を見せようか、では無いのだ。
蛍は今年、どれほど美しくなって現れるだろうか。どんな声音で俺を呼ぶだろうか、どんな眼差しで俺を見るだろうか。それが気になって仕方ないのだ。
おかしい。どうしてこんなことを俺は考えてしまうのだろう。まだ冬なのに、蛍に会えるまでは半年もあるのに……
解せないギンはいらいらと髪を掻いた。そして一際大きな溜息をはあっとついた。
その拍子、一輪の椿の上に積もった雪が一塊、どさっと落ちた。
ギンに構ってもらおうと足元にまつわりついていた小さな妖怪たちが、きゃっと悲鳴を上げて一目散に逃げる。冷たいのがきらいな妖たちだ。頭から雪を被ってはたまらないだろう。
冷たさをあまり感じないギンには、彼らの慌てる姿がちょっと面白い。あとで酷いや、と膨れられるとわかっていても、つい、あはは、と笑ってしまう。
案の定小さな妖たちはぴいぴいと甲高い声でギンの仕打ちを詰る。ギンは初めは無視していたが、あまりに彼らがうるさいので、仕方なく歩きだした。
神社の裏へ回る。この裏にある大きな楠の洞が、彼らの住処だ。そこまで赴いて謝れば、まあ、腹の虫など他愛もなく収まるはずだ。小妖とはそういうものだ。
が、ギンは楠の洞を覗こうとしていた動作をふと止めた。
さく、さく、と静かな、しかし急ぐ足音が聞こえる。人の足音だ。方向は一の鳥居。滅多に人の来ない神社でも、たまにこうして参拝するものがいる。大抵は年老いたもので、森や山の掟も良く知っている。そういう者達が訪れるのは山神様も喜ばれるので放っておく。
だがたまに……本当にごくたまに、だが……かつての蛍のように年のいかない子どもたちが紛れ込んでくる。彼らは大抵は帰り道がわからなくなってやってくる。放っておくと親達が大勢で捜しに来る。それはとても迷惑なので、ごめん蒙りたい。だから子どもを見かけたら、それとなく笹を揺らして怖がらせたりして、村への道に戻してやる。だが。
「こんな季節に、珍しい」
寒さの厳しい時季、ましてや雪の中を子どもが来るだろうか、とギンは怪しんだ。
用心しながら古い石垣の上に身を乗り出した。
すると今まさに一の鳥居をくぐって、参道をやってくる男が見えた。
二日ほど前から降り続いている。初めのうちはザラメのようなカリカリとした固い雪だったのだが、今はふわふわと柔らかい牡丹雪だ。鉛色に濁った空からゆっくり、ゆっくりと落ちてくる。
雪は世界を白く変える。山を、田を白く染め、朽ちかけた古木の幹の茶色も、朱の残る本殿の階の赤もみんな白一色に塗り変わる。ギンが今腰掛けている古い神社の石段も、ふわふわの雪で覆われて白い。輪郭もわからなくなるほどに。最上段から眺めると、どこが段の踏面か分からない。なにもかもが曖昧に白く溶けてしまったみたいな風景。
そしてこの白の世界では音も聞こえない。
ふわふわの雪が吸い取るのか、いつもなら烏の羽音も川のせせらぎも遠く響いてくるのに、なにも聞こえてこない。木々を吹き渡る風も絶えている。枯葉の積もる音もない。雪が積もるごく微かな音だけが、耳を澄ますと微かに聞こえる。ただそれだけ。
世界は枯れて、眠っている。
そんな中、最上段の右手にある古い椿の木だけが、趣を異にしていた。
深い青緑の艶やかな葉と鮮やかな紅色の花は、眠ったような白い世界にただひとつ、起きて動いている命の暖かさのようにも思える。葉に降り積もった雪は時にとさりと音を立てて落ちて、眠りかけた古い妖を驚かせたりもしている。
ギンは立ち上がるといつも被っている狐の面を外し、椿の木に近づいた。
紅色の花びらの真ん中に黄色の蘂が密集している。柔らかそうなその先端に、つい手を伸ばして触れてしまう。途端にぱっと花粉が飛び散り、ギンの指先や足元の雪が、みんな明るい金色に染まる。日の色だ。
ギンは日の色に染まった掌に、はあっと息を吐きかけてみた。もわもわとした白い吐息が、暖かい色に染まった指先を包み、手の輪郭をぼやかして広がり、消えていく。わずかだけれど体がぬくみ、ほっと肩から力が抜けた。
不意に思った。
こうすると暖かくなるのだと知ったのはいつだったか。
たぶん人がこうやって、誰かに教えていたのを見たのだ。子どもだったような気がする。そうだ。たぶん親が子に、寒いときにはこうしなさい、と教えてやっていた―――
「……いや、違う」
もしかしたら。
蛍が教えてくれたのかもしれない、とギンは狐のように尖った目尻に、ほんの少し優しい笑みを滲ませて思う。
蛍に会えるのは夏だけだから、寒いということはない。が、川で遊んで冷えたときなど、蛍がこうやってから両の掌を擦り合わせているのをみたことがある。
多分その時訊いたのだ。なぜそんなことをするのかと。それで蛍が教えてくれた。こうすると暖かくなるの、と。そんなことがあったような気がする。
「ふふ。あの時のあいつ。変な顔をしていた」
首をかしげて眉を顰め、目を上に寄せるような表情。小さな頃から時々そういう顔をする。とても変な顔だ。笑ってしまう。
だが小さな頃はただ変な顔、としか思わなかったが、最近はそんな顔でもなかなか愛らしいと思うときもある。不思議だ。
蛍が大きくなったからだろうか。
もしそうなら、もっともっと大きくなったら、もっともっと愛らしく思うようになるだろうか?
「……やれやれ」
知らずギンは吐息をついた。
この頃蛍のことを考える日が多い。何故だろう。
以前はこうではなかった。
もちろん夏になれば考えることはあった。蛍は今年も来るだろうか、来たら何処へ連れて行こう、何を見せてやろう、などと考えるのは少し楽しかった。
いや、あくまで、少し、だ。少し。ほとんどはうるさいな、とか、面倒くさいぞ、とか、あいつはすぐ飛びつくから困る、とかで鬱陶しく思う気持ちだった。
だが今は違う。
まあ、うるさい、とか面倒くさい、は多少あるが、前ほどではない。一方飛びつくのは完全にやめたから、それで困ることは無くなった。とてもホッとしている。
しかしだからといって、蛍のことを考える時間が増える理由にはならない気がする。
それに蛍のこと、と言っても、前のように何処に連れて行こう、とか、何を見せようか、では無いのだ。
蛍は今年、どれほど美しくなって現れるだろうか。どんな声音で俺を呼ぶだろうか、どんな眼差しで俺を見るだろうか。それが気になって仕方ないのだ。
おかしい。どうしてこんなことを俺は考えてしまうのだろう。まだ冬なのに、蛍に会えるまでは半年もあるのに……
解せないギンはいらいらと髪を掻いた。そして一際大きな溜息をはあっとついた。
その拍子、一輪の椿の上に積もった雪が一塊、どさっと落ちた。
ギンに構ってもらおうと足元にまつわりついていた小さな妖怪たちが、きゃっと悲鳴を上げて一目散に逃げる。冷たいのがきらいな妖たちだ。頭から雪を被ってはたまらないだろう。
冷たさをあまり感じないギンには、彼らの慌てる姿がちょっと面白い。あとで酷いや、と膨れられるとわかっていても、つい、あはは、と笑ってしまう。
案の定小さな妖たちはぴいぴいと甲高い声でギンの仕打ちを詰る。ギンは初めは無視していたが、あまりに彼らがうるさいので、仕方なく歩きだした。
神社の裏へ回る。この裏にある大きな楠の洞が、彼らの住処だ。そこまで赴いて謝れば、まあ、腹の虫など他愛もなく収まるはずだ。小妖とはそういうものだ。
が、ギンは楠の洞を覗こうとしていた動作をふと止めた。
さく、さく、と静かな、しかし急ぐ足音が聞こえる。人の足音だ。方向は一の鳥居。滅多に人の来ない神社でも、たまにこうして参拝するものがいる。大抵は年老いたもので、森や山の掟も良く知っている。そういう者達が訪れるのは山神様も喜ばれるので放っておく。
だがたまに……本当にごくたまに、だが……かつての蛍のように年のいかない子どもたちが紛れ込んでくる。彼らは大抵は帰り道がわからなくなってやってくる。放っておくと親達が大勢で捜しに来る。それはとても迷惑なので、ごめん蒙りたい。だから子どもを見かけたら、それとなく笹を揺らして怖がらせたりして、村への道に戻してやる。だが。
「こんな季節に、珍しい」
寒さの厳しい時季、ましてや雪の中を子どもが来るだろうか、とギンは怪しんだ。
用心しながら古い石垣の上に身を乗り出した。
すると今まさに一の鳥居をくぐって、参道をやってくる男が見えた。