いばらの森
と、女の子の輪の外から、さきほど車の周りにいた子供が声をかける。
「またねぼう?」
「…そうだねぇ…」
アルフォンスは、ちらりとステンドグラスの窓を見上げた。
どうなんだろうか。単に、ロイが起きて下にいることに動揺しているのかもしれないし、本当に寝ているのかもしれない。今日は二度寝ではないと思う。
こちらの会話が聞こえているのかいないのか、ロイは、意外な程手際よく朝食を仕上げて行く。
といってもそんなに凝った物でもないのだろうが、そもそも彼が包丁を使えた事自体、アルフォンスにとっては驚きである。まさか国軍の大佐、東方司令部の司令官ともあろう彼が、そんな技能を持っていただなんて…。
これでは姉さん炊事じゃ勝てないな、とアルフォンスは苦笑する。
今のこの隠れ家避難生活は、ずっと続く物ではない。いつまで、という期限もないが、ロイがまさか、あの怪しい人物をいつまでも捕らえられないという事はないだろう。だが、それでも、一応婚約者ということになっているのだし(アルフォンスは、ふたりの間で本当にそれが約束された物だという事を知らなかった)…まずいかなあ、とぼんやり思ったアルフォンスである。
「…ねえさんにもちょっと料理させた方がいい気がするな…」
エドワードは家事が出来ないわけではない。ただ、上手いかといわれると疑問だ。アイロンもそうだが、包丁を持つ手つきはどこか危なっかしい。一応味覚はまともらしいので、味付けには多分問題ないはずなのだが…。ちなみに彼は姉に甘いところがあったので、片手が義肢だからどうしても手を使う作業は苦手なんだ、というように理解してやっていた。
じゅうじゅうというベーコンの焼ける音を聞きながら、アルフォンスは思ったものだ。やっぱりこの人姉さんの旦那さんとしてとてつもなくお買い得なんじゃないだろうか、と。
―――ちなみにその頃エドワードは、どうしていたのかといえば。
「………やばい……」
布団の中で眉間に皺を寄せていた。
大体ここに来てからというもの、近所の子供達の来訪で目が覚めていたのだが、…昨日はロイが泊まっていったことをすっかり忘れていた。先週は、彼は日曜の午前中に来て、夕方に帰っていったから、そんな心配は全く必要なかった。
だが今日は。
…先に目を覚まして、顔くらい洗っておきたかった。髪くらい梳かしておきたかった。
それが、だ。
気がついたら階下からは子供達とアルフォンスの声に混じって、ロイの声。息を飲んでももう遅い。ロイは起きてしまったらしい。
着替えは部屋で出来る。髪だって梳かせる。だが顔ばかりは、洗面所に行かなければ洗えない。二階には水場がないのだ。
そして洗面に立つという事は、ロイと会うのは避けられないということでもある。顔も洗っていない姿で?
確かにエドワードは化粧というものをしていなかったから、顔を作らなければいけない、という悩みとは無縁であったが(まだそういう年齢であるのに婚約者から家一軒ぽんと渡される、というのがいかにありえないというか目立つ状況であるかに考えが及んでいないあたり、ロイもエドワードも基本的なところで世間ずれしている)…顔くらい洗っておかなければさすがに恥ずかしい。
しかしロイはもう起きているらしい。となれば、起きて階下へ降りていって、ロイを無視して顔を洗いに行くのも気が引けるというか…変だろう。失礼とかそういったことはさして気にもならないが、いかにも意識しているようで気恥ずかしい。
大いに困ってしまって、エドワードはもぞもぞと羽布団の中で身じろぐ。しかもトイレも行きたくなってきた。ますますもって背水の陣…さて、どうやって打破したらよいのか…。
と…、そうやってもぞもぞしていたエドワードの部屋のドアを唐突にたたく者がいる。
びくり、と肩を跳ねさせて、エドワードは上半身を起こした。
弟だったらノックなどしない。声をかけてくるだけだ。子供達だってノックはしない。止める間もなくなだれこんでくる。ということは、たった一人しかいないではないか。ドアの向こうの正体など。
「…寝ているのか?」
やがて静かな声。何となく、起きているのはばれている気がする。気配には敏い男だ。
しかしまだ寝間着のままだし、髪だって少々跳ねている。しかも顔も洗っていないし、歯も磨いていない。
…この姿で顔を合わせるのは、猛烈に恥ずかしい。
どうしよう、と焦るエドワードは、昨夜もベッドサイドに持ちこんだ分厚い本の存在をすっかり意識の外、視界の外に追いやっており―――
バタンっ…
エドワードが動かした腕が当たり、見事、本は床に落ちた。思わず声にならぬ声が出たが、留められるものでもない。
「…っ、しま…」
分厚い、辞典のような本が床に落ちることで、隠し様のない音がする。まずい、とエドワードは天を仰いだ。
「……おはよう」
くすくすと笑いを含んだ声は、室内の人物が起きていることを確信しているがゆえだろう。エドワードはかあっと頬が熱くなるのを自覚する。本当に恥ずかしかった。
「………?」
だが、入ってくるのかと思われたロイは、部屋には入ってくる様子がない。
「零さないようにドアを開けて、顔を洗ったら下へ降りておいで。朝食が冷める前にね」
ぽかんとしているエドワードの耳に、そしてそんな言葉が入る。え、と思っていると、では私は先に行っている、という声がして、とんとんという軽い足音が遠ざかる。
「…え?」
呆然としていたエドワードだが、一度かぶりを振ると、そっと足音を立てずにドアに近づく。そして、そろりそろりとドアを開けた。
「…? …!」
そこにあったのは、洗面器だった。桶というには少し小さい。そして湯気が立っているのを見れば、湯なのも明らかだ。
ぺたん、と床に座りこんで、エドワードは呆然とそれを見つめた。
「……あったか…」
手を浸せばそれは適温に温まっている。
…まだ冬ではないが、水道の水は確かに、朝は冷たく感じる。だから、なのだろうか。ロイがわざわざ湯など持ってきたのは。手が冷たくないようにと。少しでも暖かいようにと。
「…マメなやつ…」
ぽそりと呟くと、少女は、消すことの出来ない微笑みを小さな唇に刻んで、洗面器を両手で持ち上げた。
二週間も続けていれば、さすがにスカートにも慣れてくる。ロイの待つ(結果としては)階下へ降りたエドワードは、高い襟と袖は白く、後は濃紺の生地のブラウスと、ベージュの巻きスカートを身に着け、細めのベルトを締めていた。とりあえず乾いている服はそれしかなかった―――アイロンがかかっているのも。
「おはよう」
足音を潜めて階段を下りたエドワードだったが、たまたまそちらを振り向いた所だったロイとばっちり目が合い、うろたえている間に先に挨拶されてしまった。
「…お…、はよう…」
かっと目元に朱が走るのを止められない。
「パンを焼いてもいいか?」
「え?うん…?」
何とか返したエドワードをからかうでもなく笑って、ロイは、火をつけた。そしてフライパンにバターを落として、慣れた手つきでフライパンを回す。それから、深皿を片手に、もう片手にバタービーターを構える。
「…?」